【国際司法裁判所の成立】
20、仲裁裁判制度
仲裁裁判は、近代に発明された制度ではなく、早くも古代ギリシャ及びそれ以前の時代において盛んに行われていたという。ローマ教会の全盛時代には、世界至上の権力者を自任する歴代のローマ教皇が進んで国際紛争に対する仲裁者になった例は少なからずあり、一四九四年にポルトガルとスペインとが締結したトルデシリヤス条約に基づくデマルカシオン(境界確定)は、ローマ教皇アレクサンデル六世を仲裁者に戴く仲裁裁判の判決であった。ローマ教皇の権威の衰微に伴いヨーロッパ全体では廃れていた仲裁裁判が各国に見直され再生させられた契機は、一七九四年に建国後から間もないアメリカの大審院長ジョン・ジェーがイギリスに赴き、一種の仲裁裁判条約(Jay Treaty)をイギリス政府と間に締結したことである。これ以降、仲裁裁判制度は大いに発達し、一七九四年から一九一四年までに各国が国際紛争の解決を仲裁裁判に付託した件数は二百四十に及ぶという(1)。
当時の仲裁裁判は、国家間に外交交渉では解決されない紛争が生じた時に、紛争当事者間に協定―これは国内法上の仲裁手続に用いられる言葉を借りてコンプロミーと呼ばれる―が結ばれ、紛争を仲裁裁判に付託して解決することが約束された後に、開廷されたのである。
一八七二年、清国のクーリー(苦力)を輸送するペルー国船マリア・ルース号が横浜寄港中に、虐待に耐えかねたクーリーが逃亡、イギリス軍艦に救助を求め、神奈川県権令の大江卓は奴隷売買事件として裁判し、クーリーの釈放と本国送還を決定した。ペルーはこれに不服を申し立て、日本と間にマリア・ルース号事件の解決を仲裁裁判に付託する協定を結び、ロシア皇帝アレクサンドル二世に仲裁者の任務を依嘱したものの、三年後、仲裁裁判は日本側の主張を認めた。
一九一〇年頃、イギリスとアメリカの間に総括的な仲裁裁判条約を締結する動きが起きた。それは今後両国間に生じる総ての紛争を仲裁裁判に付託して平和的に解決する為の約束であり、いわば英米二国間の不戦条約の締結であった。しかし当時イギリスは日本と攻守同盟を結んでおり、日米が開戦すれば当然イギリスは日本を助けてアメリカと戦わねばならず、英米不戦条約は日英同盟条約と矛盾する。そこでイギリスは、この矛盾を解消する為に日本政府に対して、日英同盟条約を改訂してアメリカを適用除外国とするか、もしくは日本も英米間の仲裁条約に加わりこれを日英米三国間の不戦条約に発展させるかという二者択一を求めてきた。これに対して小村寿太郎外務大臣は、「国家の興廃に関することまで仲裁裁判に委ねるべきではなく、また仲裁裁判官の多くは欧米人であろうから、日本は文化の相違や、人種、宗教上の偏見のために不利となる危険がある」という理由から前者を選択し、また英米間の仲裁裁判条約それ自体もアメリカ上院に批准を拒否され不成立に終わった(2)。
かくのごとく仲裁裁判は、これに紛争を付託するという国際合意が成立した時に限って開廷されるのであるが、この合意の成立は実際上必ずしも容易ではなかった。しかも或る紛争を仲裁裁判に付託して解決するという原則について意見が一致したとしても、仲裁者として誰を選任するという問題その他のコンプロミーに規定されるべき諸点について合意ができなければ、仲裁裁判に訴えることは不可能に陥る。故に人類がこの障害を取り除いて仲裁裁判の国際利用を促進し、恒久平和の実現に一歩でも近づく為には、
1、国家間に仲裁裁判に関する条約を結び、この条約によって、締約国間に生ずる総ての紛争、少なくとも一定の種類に属する紛争を、それが外交交渉などの道による当事者間の妥協で解決しなかった時には、必ず仲裁裁判に付託することを予め約束しておくこと。
2、国家間の条約によって、常設国際法廷が設置され、その構成、裁判手続および裁判基準が定められていること。
という二つの条件が揃わなければならなかった。そこでハーグ平和会議は仲裁裁判制度を更に発達させる為に、この二条件の整備を試みたのである。
第一回ハーグ会議が可決した国際紛争平和的処理条約には、
「締約国は、法律問題就中国際条約の解釈又は適用の問題に関し、外交上の手段に依り解決すること能わざりし紛争を処理するには、仲裁裁判を以て最有効にして且つ最公平なる方法なりと認む。」
という規定(第十六条)が設けられ、第二回ハーグ会議は、この第十六条の後身である同名の条約第三十八条の後段に、
「故に前記の問題に関する紛争を生じたるときは、締約国に於て、事情の許す限り、仲裁裁判に依頼せむことを希望する。」
と付け加えた。ここに用いられた「事情の許す限り」及び「希望する」という言葉は、義務的でないことを表現する条約用語であり、第三十八条は締約国に国際紛争を仲裁裁判に付託する義務を課するものではなく、ただ単に仲裁裁判の有効性を確認したに過ぎない。
故に第二回ハーグ会議は、国際紛争平和的処理条約の諸条項の補修とは別に、イギリス代表の提出した案を基礎として、義務的仲裁裁判に関する条約案の作成を企図したのである。
その第一条は、「締約国中の二国または数国間に今後生じる法律的性質の紛争、就中彼等の間に存する条約の解釈に関するものは、外交の道によって解決されなかった場合には、その紛争が右の諸国の何れかの重大利益(死活的利益)、独立または名誉に影響するものではなく、また紛争に対する第三国の利益にも触れないものである限り、仲裁裁判に付託されねばならぬ。」という規定であったが、この条項に含まれる大幅な留保(除外規定)は、締約国によって恣意的に解釈される以上、義務的仲裁裁判をほとんど有名無実化する危険性を孕んでいた。そこでハーグ会議の第一委員会は、国家の重大利益にほとんど影響を及ぼさない以下の八項目に関する条約の解釈および適用の問題を選び、これに関する紛争は無留保に義務的仲裁裁判の対象にしようとしたのである。
1、貧困病者に対する無償救済
2、労働者の国際的保護
3、海上衝突予防方法
4、度量衡
5、海難
6、死亡海員の俸給及び相続
7、文学及び芸術作品の保護
8、賠償支払いのなさるべきことにつき当事者間に一致があった場合における賠償金額の決定の問題
しかしこの条約案は、第一委員会で表決に付された時、多数の賛成を得たものの、ドイツ、オーストリア、イタリア、日本がこれに賛成せず、とくに独墺二国の反対は強硬であった。その結果、同委員会は義務的仲裁裁判に関する条約の制定を断念し、その代わりに次の決議を本会議に送り、三国の棄権を除く全会一致の可決を得た。
「平和会議は全会一致をもって、(1)義務的仲裁裁判の原則を承認し(2)或る種の紛争、ことに国際条約上の規定の解釈及び適用に関するものは、無留保に義務的仲裁裁判に付するに適するものであることを宣言する。
また会議は、右の趣旨の一条約を締結するに至らなかったとはいえ、表示された意見の相違は法律的な論争の範囲を超えず、世界の総ての国は此処における四ヶ月の協力によって互いに益々理解し接近することを学んだだけでなく、この長い協力の間に人類の共通の福祉に関する崇高な感情を盛り上がらせることができたことを、全会一致をもって宣言する。」
かくして義務的裁判条約制度の樹立は失敗に終わったが、これは却って常設国際法廷の設置を実現に向けて大きく前進させたはずであった。常設国際法廷は、ハーグ会議に参加した諸国がこれに一定種類の紛争を必ず付託する条約を締結しない限り、諸国に対して法廷の維持費以外に何の負担も義務も課さないからであった。にもかかわらず第二回ハーグ会議が試みた常設国際法廷の設置は、或る重大な障害にぶつかり頓挫してしまったのである。それは法廷の構成に関する大国側と中小国側との意見の対立であった。大国側は現実の国際政治におけるその地位を法廷の構成にも反映させることを欲し、これに対して会議の大多数を占める他の中小諸国は、国家平等の原則をここにも貫こうとした。後者は仲裁裁判において大国の特権的地位を認める必要のないことの理由として、強国が仲裁裁判によって紛争の解決を図ることは稀であり、これを頻繁に利用する者は弱国であるという歴史上の事実を持ち出して争ったのである。
会議に提出された英米独三国の共同提案は、この三ヶ国に仏、墺、露、伊、日を加えた八大国に、十二年の任期を持つ裁判官を任命する権利を与え、他の国々を四クラスに分け、その各々に六年、四年、二年、一年の任期を持つ裁判官を任命する権利を与えようというものであった。これに反対するブラジル代表(ブラジルは大国案では四年組に入れられていた)の提出した案は、各締約国に一名ずつの裁判官を任命させ、任期は皆ひとしく九年としようというのである。もっともこのブラジル案は、五十名に近い裁判官の全部が常時勤務していることは困難なことを予想し、国名アルファベット順に三つのグループに分け、その一つずつが三年間常勤の任に当たることにした。但し当番以外の裁判官も自分が欲するならば法廷に列する権利はあるものとされる。この案はもちろん大国側の受諾するところとならず、また大国側の案は会議の多数を占める中小国の頑強な抵抗に遭遇した。
その結果、会議の第一委員会は、法廷の構成方法に関する規定を省略した常設裁判所の案を作成し、第二回平和会議最終議定書の末尾に「会議は締約国に、ここに付属する一つの仲裁的司法裁判所の設置のための条約草案を、裁判官の選定と裁判所の構成について合意が成立すると同時に、採用し且つ実施することを勧告する」という希望条項を付けて、常設国際法廷の設置のための条約草案を公表するに止めたのである。
その代わりにハーグ会議は、常設国際法廷の設置の失敗を諸国民に隠蔽する為の「常設仲裁裁判所」なるものを設置したのである。条約に加入する諸国は各々四名以下の裁判官を任命し、彼らによって構成される常設仲裁裁判所は、付属機関として裁判所関係の書記を掌る国際事務局と、事務局を指揮監督し局員の任免と俸給を決定する常設管理評議会とを持っていたのだが、裁判所の大法廷が仲裁裁判を行うのではなかった。条約の締約国が彼らの相互間に生じる紛争を仲裁裁判に付託してこれを平和的に解決せんと欲する時は、国際紛争平和的処理条約第四十五条に従い、まず常設仲裁裁判所構成員総名簿から裁判官を選定して「裁判部」を設置するコンプロミーを結び、この裁判部に紛争を付託し、その解決を委ねるのである。つまり実際に仲裁裁判を行う機関は、紛争が生じる毎に紛争当事国間の合意によって設置される裁判部であって、常設仲裁裁判所は、裁判部に加わる裁判官と事務員とが待機する「控えの間」に過ぎなかった。にもかかわらずハーグ会議は、これに常設仲裁裁判所という名称を与えたのである(3)。
一九〇七年の第二回ハーグ平和会議が十三の条約を制定した動機は、会議の第一目的である軍備縮小の問題が解決されなかったことを糊塗し、諸国民の非難を回避するという不純なものであった為に、十三の条約には、空疎な内容を豊富な美辞麗句で包み込み、諸国民の目を晦ませる羊頭狗肉の条約が意図的に混入された。それが「国際紛争平和的処理条約」であり、そして一九四一年十二月八日、我が国の外務省の大失態によって帝国海軍機動部隊の真珠湾攻撃が事前の宣戦布告のない「奇襲」にされた時に、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに悪用された「開戦に関する条約」も、実は虚報の詐術を仕込まれた、看板に偽りを持つ条約なのである。この条約については後に稿を改めて詳述するが、ハーグ会議では、オランダ代表が条約の原案の「事前の通告」という言葉だけでは不満足であると唱え、
「単に事前と言えば、国境で敵対行動が開始される数分前でもよいことになり、事前の通告は実際上まったく無意義となる。故にフランス案を修正して、開戦の通告と敵対行動の開始との間に二十四時間の間隔を置くのがよいであろう。」
と提案したものの、原案提出者のフランス代表は、
「事前とは敵対行動に先行することを意味する。しかし通告が相手国政府に到達すると同時に、敵対行動が開始されても差し支えない。現代の戦争の必要は、敵国にそれ以上の時間的猶予を与えることを攻撃者に要求することを不可能ならしめる。」
と主張して譲らず、結局フランスの原案がそのまま条約の第一条となったのである。その結果として開戦に関する条約は、文言上は「不意討ち」を禁止しながら実質上はこれを容認する奇妙な条約となってしまい、二十八ヶ国の批准しか得られず、一九〇七年以降に勃発した戦争において多数の諸国によって無視され、死文化されたのである…。
(1)信夫【戦時国際法1】六五三頁。
(2)岡崎久彦【小村寿太郎とその時代】三一六頁。
(3)田岡【国際法Ⅲ】九~十八頁。
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