【滅亡の危機に瀕する日本】
5、世界史における日本軍
日本民族は、かつて尚武の民であった。
モンゴル帝国を構成するフビライ・ハンの元国(一二七一~一三六八)が一二七四・八一年の二度にわたり日本征服の遠征軍を起こし、我が国に攻め込んできた。人口に膾炙する「元寇」である。
モンゴル軍の戦術は、まず鎧をつけない軽騎兵が疾駆しながら弓矢を敵陣に乱射して敵軍を混乱させ、すかさず四枚の皮鎧をまとった重騎兵が密集隊形を維持しつつ槍と半月刀を振りかざして敵軍に突撃を敢行するというもので、モンゴル軍は中央アジアのホラズム王朝、西夏、金、ロシア、ドイツ、ポーランド、イランのアッバース朝、支那の南宋、朝鮮の高麗など各国軍を蹴散らしてユーラシア大陸を席巻し、巨大なモンゴル帝国を築き上げたのである。
南宋の滅亡から二年後、一二八一年の弘安の戦役では、朝鮮半島南端の合浦(馬山)から出撃した元・高麗連合軍が日本の対馬、壱岐を襲い、博多湾に上陸した。これに対して全国各地より九州に集結した鎌倉幕府の我が武士軍団は、複雑な地形と石積の防塁を利用して元軍の機動力を封じ、鉄鎧をまとい弓矢をものともせずに敵軍に接近戦を挑み、世界無比の切れ味を誇る日本刀を振るって元・高麗軍兵士を次から次へと斬り伏せ、さらに我が水軍は夜の闇にまぎれて小船を繰り出し敵軍の船団に奇襲・火攻を敢行するなど、我が日本軍は積極果敢に勇戦して元・高麗連合軍を撃退し、我が国の独立、我が民族の生存を守り抜いたのである。
世界戦史上、上陸軍が迎撃軍に敗れた戦例は、この元寇とクリミア戦役の二例しかない。若くして禅宗を修め悟りを開き、蒙古襲来に動じることなくこれを撃退した当時の鎌倉幕府執権北条時宗は、我々が決して忘れてはならない救国の恩人である。
一四九四年、ポルトガルとスペイン両国は、ローマ教皇アレクサンデル六世の勅許を得て、トルデシリヤス条約を締結し、デマルカシオン(境界確定)を行った。すなわち両国はアフリカ大陸西端のベルデ岬の真西に浮かぶベルデ岬諸島より西方三七〇レグワ(一レグワは約五.六キロ)の地点から両極に向かって南北に延びる直線を引き、線から東に存在する全て島と大陸はポルトガル王に属し、線から西に存在する全ての島と大陸はスペイン王に属すると決定し、地球征服競争を開始したのである。
ポルトガルはアフリカ大陸南端の喜望峰を廻って一五一〇年にインドのゴアを領有、翌年にはマラッカ王国を征服し、当時のヨーロッパ人にとって垂涎の貴重品であった香料と胡椒の一大産地モルッカ諸島を支配下に収め、香辛料貿易を独占し、ポルトガルの首都リスボンは大繁栄を遂げたのであった。
一方、スペインは大西洋を西進し地獄の使徒として一五二一年にはメキシコ高原のアステカ王国を征服、三三年にはペルーのインカ帝国を滅ぼし、中南米の銀山を独占支配し、さらに太平洋を越えて六五年にはフィリピンを領有し、七一年にマニラを建設したのであった。そして現在の国際倫理に立脚すれば、倣岸不遜にして残虐非道なるポルトガルとスペインの地球征服競争は、ついに当時戦国時代にあった極東の我が日本にも波及し、一五四三年にポルトガル人が明国海賊の王直の船に乗って種子島に漂着したのである。日本人は、彼等の征服事業を可能にした最新兵器「鉄砲」を見るや否や、日本刀を生み出した鍛冶技術を生かし、すぐさま鉄砲の模倣と改良、大量生産を開始したのである。
四九年に来日したカトリック・イエズス会東インド管区長フランシスコ・ザビエルは日本人の資質について、ゴアに宛てた最初の日本報告書の中で次のように述べている。
「この国民は自分達がこれまで接触してきた諸国民の中で最高に傑出した人々である。まだキリスト教化されていない国民で日本人ほど優秀な者は無い。彼らは総体的に親しみやすく、善良で悪意がない。驚くほど名誉心が強く、他の何ものにも代えて名誉を重んじる。日本人は大概貧乏である。だが武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥と思っている者は一人もいない。日本人は侮辱や嘲笑を黙って忍んでいる様なことは決してない。平民は武士に敬意を払う。同様に武士は誇りを以て領主に仕えている。領主への恭順は内面から発している。領主に叛逆して受ける処罰の屈辱よりも、忠誠の美徳に欠けることが自分の名誉の否定になると考える、その名誉心の誇りが強いからである。」
現在の我々が「元に従属するか、さもなくば滅亡するか」と日本を恫喝する元の使者を斬り捨てた時宗の気概に思いを馳せ、このザビエルの報告書を読む時、共産中国と南北朝鮮の反日的恫喝、侮辱、強請に対して、恥も外聞も祖国への忠誠も投げ捨ててただひたすら平身叩頭謝罪し国を売り続ける現在の日本政府の卑屈、卑怯、卑劣、卑猥(河野洋平によって確立された四卑主義外交)は、これを毎日のように見せつけられる我々に「日本はここまで堕落したのか」との祖国の前途に対する絶望感を抱かせるには充分すぎる程、醜く酷い。
そして七五年の長篠の合戦において、織田信長軍が三千挺の鉄砲を三隊に編成し、世界最初の一斉射撃を行い、武田勝頼の騎馬軍団を壊滅させたのである。さらに三年後、信長は三ミリの厚さを持つ鉄板で装甲され、三段の鉄砲狭間、三層の天守、三門の大砲を装備する巨大な鉄甲軍船六隻を建造し、紀州雑賀水軍と毛利水軍を撃破して大坂湾を制圧、全本願寺教団の石山本山を手中に収めたのである。ヨーロッパでは、長篠の合戦から約二十年後にようやく一斉射撃戦術が行われ、鉄甲船の建造に至っては十七世紀以降の出来事である。
織田信長は、信仰の自由を認める代償として宗教団体が政治に関与することを許さなかった世界最初の啓蒙専制君主であると同時に、従来の戦争術を一変させた世界戦史上屈指の天才的軍事革命家であった。
信長が本能寺の変の遭遇し天下布武の志半ばでこの世を去ってから半年後の一五八二年十二月十四日、イエズス会東インド巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノはスペインのフィリピン総督に宛てて次のように報告した。
「日本のキリスト教会については、閣下に書き送るべきことがたくさん有る。なぜなら私は日本に三年近く滞在して、今年当地に戻って来たからである。私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業の一つである旨、断言することができる。なぜなら国民は非常に高貴かつ有能にして理性によく従うからである。
もっとも日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。なぜなら日本は、私がこれまで見て来た中で、最も国土が不毛かつ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。しかしながら支那において陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるであろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。」
スペインは、一五七一年にはレパントの海戦でオスマントルコ帝国を破り、八〇年には征服競争の相手であるポルトガルを併合してヨーロッパとアジア・アフリカ間の貿易を独占しており、当時のスペインは「太陽の沈まぬ国」と形容された黄金時代を迎えていたのである。にもかかわらず、スペインの征服事業の尖兵たる宣教師は、日本の征服は不可能と判断したのである。
十六世紀の後半の我が国は、非西欧圏にあって唯一、鉄砲の大量生産に成功した国であるばかりか、世界最大の鉄砲保有国にして世界最強の軍事大国であり、優秀な知能を持つ国民と豊富な金銀の産出とに恵まれた世界超大国であり、スペインの宣教師をして日本の征服を断念せしめたのである。それどころか、我が国は対スペイン予防戦争を敢行したのである。それは即ち豊臣秀吉の朝鮮征伐である。
スペインの宣教師たちは、本国に対して、スペインが日本と同盟すれば支那大陸を支配する明国の征服が容易なることを盛んに説き、協力を期待できる日本の武将として小西行長などのキリシタン大名を挙げており、事実、小西行長や松浦隆信らは、マニラのスペイン総督府に対しシャムにでも明にでも派兵すると、密かに申し出ていた。
マニラでスペインの明に対する出兵計画が煮詰まりつつあった一五八七年、島津討伐の為、九州博多に滞在していた秀吉は、ちょうど二年前に大型船二隻の売却を依頼していたイエズス会の日本準管区長コエリヨを引見した。だがコエリヨは秀吉を恫喝するがごとく軍船の威力を誇示するだけで船の引渡しを拒否し、コエリヨの無礼な態度に激怒した秀吉はその直後にバテレン神父追放令を発布し、代表的なキリシタン大名である高山右近を改易処分に付したのである。信長に長年付き従ってきた秀吉は、長崎がキリスト教会領となり、そこで寺院がキリスト教徒によって焼き討ちされたことを知り、またコエリヨの無礼な態度を見て、キリスト教徒の中に、信長を苦しめた本願寺門徒衆と同じ政治に介入する宗教団体の危険性を感じて先手を打ったのである。九一年さらに秀吉は聚楽第でポルトガル人使節団を引見し、彼等を通してスペイン・ポルトガル国王フィリップ二世(フィリピンの名の由来)に書簡を送り、秀吉が天下統一を果たした経緯と日本が神道と仏教の国であることを説明して、宣教師のキリスト布教活動を批判し、さらにスペインと同様に日本にも明を征服する計画があることを語った。そして翌年、秀吉は自分の言葉通り、明へ討ち入る為、九州名護屋から大軍を朝鮮に派遣したのである。
一五九二~九八年間に我が国が二回行った朝鮮征伐は秀吉の死によって中断され、満州族による清国の建国と明国の滅亡を促進するだけの結果に終わったが、秀吉の胸中にあった世界戦略は、スペインがフィリピンから明を征服し西欧が「元寇」以上に強大な日本の脅威となる前に、日本が明とインドを征服して大陸帝国となり西欧に対抗するという実に気宇壮大な構想であった。
一五九四年にマニラ総督に送られた秀吉の書状は次のように述べている。
「予が誕生の時、太陽が予の胸に光を与えたが、これは奇跡であり、これによって予が東西にわたって君主となるべき人物であり、諸国はことごとく予に服し、予の門に来たって屈服すべきであることが判る。これを為さぬ者は戦いによってことごとく殺戮するであろう。予は既に日本全国及び朝鮮国を手に入れ、数多の武将がマニラを攻略に行く許可を予に求めている。これを知って原田喜右衛門と長谷川法眼は予に、『彼我の地の間には諸船の往来があり、それによってマニラが敵であるとは思えない』と言った。この道理によって予はマニラへ軍勢を派遣することを思い留まったのである。朝鮮の人々に対しては彼らがその言葉を守らなかったので戦を始め、その首都までも獲得し、その後予の部下は彼らの救援に支那から来た無数の支那人や数多の貴人を殺害した。彼らはかの地において支那からの使節を待っている。もし彼らがその言葉を守らぬならば、彼らと戦うために予自ら出陣するであろう。こうして支那に到ればルソンはすぐ近く予の指下にある。予は我ら日本とフィリピンが永久に友交を保つことを希望する。これをカスティリャ(スペイン)国王に書き送られよ。遠隔の地を理由にカスティリャ国王が予の言葉を軽んずることがないようにせよ。」
マニラのスペイン人総督はこれを読んで激怒したそうだが、それは無理もない。秀吉の書簡は、「日本に従属するか、さもなくば滅亡するか」とスペインを恫喝する尊大傲慢なものだからである。しかし、極東の日出づる国に生まれた日吉丸が長じて天下統一を果たした後、太陽を崇拝し太陽の子と称する国王を戴くインカ帝国を滅ぼして世界帝国となった太陽の沈まぬ国スペインを恫喝したのである。これは我々日本人にとって実に痛快な出来事ではないか。
九六年、サン・フェリーペ号という船が、土佐の浦戸に漂着するという事件が起きた。積荷は日本側に没収され、乗組員は尋問を受けたのであるが、彼らは世界地図上のスペイン領土を説明してスペイン国王の強大な実力を誇示し、日本人を威嚇しようとした。広大な領土をいかにして獲得したのかという日本側の尋問に対して、乗組員は、「それは困難なことではない、国王は征服しようと思う国にまず宣教師を送り込む。そして住民の一部を改宗させるや否や次に軍隊を送り込み、改宗者と合同して易々と征服した。」と白状したのである。
スペインの征服方法は、かつてコミンテルン(ソ連共産党国際部)が世界を征服する為に、我が国を始め世界各地の非共産主義国に仕掛けた諜報謀略工作に何と酷似していることか。唯一の差異は、標的国に輸出する宗教の種類である。
乗組員の証言内容を報告された秀吉は、直ちに二十六名のキリスト教徒を処刑し、翌年、抗議に訪れたマニラ総督府の使節団に対して、キリスト教を利用して日本征服を企んだスペインの陰謀を非難し、積荷の引渡しを拒否し、もし今後スペインが聖職者を日本に入国させないと約束するならば、一定限度の日本とスペイン間の貿易実施には同意することを言明したのである。西欧勢力とは貿易するがキリスト教の布教は許さないとする秀吉の先見の明と凛然たる態度こそが、その後の徳川幕府の外交基本政策として継承され、江戸時代三百年の太平の世を開いたのである。
大阪城の近くに建立されていた秀吉の銅像が戦後に朝鮮人に媚び諂う卑屈な日本の行政当局によって撤去され、秀吉を主人公にしたテレビ・ドラマはいずれも、秀吉が貧しい農民の子から身を起こして天下を統一した立身出世の生涯を強調するばかりであるが、秀吉の真の偉大さは、世界に向かって目を大きく開き、スペインの日本征服事業を頓挫させ日本を守り抜き、敢然と西欧を恫喝したところにあるのであって、我々は、豊臣秀吉を、スペインに「日本は侮り難い強敵なり」と恐怖戦慄させた英雄にして、残虐な異端審問で悪名高いフィリップ二世のライバルとして再評価しなければならない。
徳川幕府は、朱子学(儒学)を公認して統治哲学とし、武をもって豊臣家を滅ぼし国内を平定した後は、小銃、大砲、これらを装備する鉄甲船など最新諸兵器の研究開発生産を禁じ、日本の軍事水準を刀槍の時代へ後退させる軍縮を行う一方、文(学問)をもって万民を撫育する文治主義を採り、徳川幕府に徳治の重要性を説いた林羅山の家を軸に昌平学問所を創設し学問の振興に努め、各藩もこれに習って藩校を設立し、庶民も統治者の学問振興策に感化され、自発的に寺子屋を組織し子供に読み書き算盤を教え、在野の有志や賢者も盛んに私塾を開いたのであった。
江戸時代とは日本人が上から下まで常に書を携え諸学問に熱中した時代であった。しかし我が国は尚武の精神を失い李氏朝鮮のごとく卑武の精神に汚染された訳ではなかった。各藩は、藩校で藩士に武芸を練磨させ、鉄砲、大砲生産技術の失伝を防ぐ為に鍛治師に大砲のミニチュア模型を作らせており、また幕府は、長崎出島のオランダ商館長に「オランダ風説書」を提出させるなどして海外の政治軍事科学情報を入手分析して世界情勢に警戒の目を光らせていた。我が国の尚武の精神は、いわば太平の世の伏流水となって途絶えることなく時代を生き抜いており、日本がペリーの来航に遭遇するや否や、世上に噴出して幕末の動乱―天皇を戴く権威と権力の均衡分立君民一体の統治という我が国体の中で行われた、救国の為の政変劇―を生み、日本国中を覆って江戸時代に世界最高水準にまで到達した、数学を筆頭とする日本人の文理系知力と結びつき富国強兵策を推進実現し、かくして我が国は清国を破り、不凍港を求めて満州から朝鮮半島を南下してきたロシア帝国に勝利したのである。日露戦争における我が国の勝利は、我が国の独立と生存を維持したのみならず、完成直前に迫っていた世界のアパルトヘイト化すなわち白人による世界征服を阻止し、欧米白人列強の支配に呻吟する非圧迫民族に感激と希望と勇気を与え、彼らの独立運動を大いに刺激したのであった。
この世界史に刻まれた日本の奇跡の原動力は、徳川幕府の文治主義により目覚しい発達を遂げた文理系知力と日本が古来より培養してきた尚武の精神であった(1)。
過去が現在を生み、現在が未来を作るのである。
満州での日露両軍の決戦を観戦したイギリスのイアン・ハミルトン中将は、日本陸軍が兵力において劣勢でありながらも果敢に攻勢作戦を採り、世界最強のロシア陸軍を撃破し北方へ押し返してゆくことに「日本人は生まれながらにして軍人であり愛国精神の乳を飲まされて育っている」と驚嘆し、
「私は、少なくとも十回は、日本兵がすばらしい素質の持ち主であることを記述したい。彼らは、赤子のように無邪気で、ライオンのように勇敢で、考えるのは祖先と天皇に対する義務を果たすことだけである。」
と日本軍将兵の勇戦を礼賛した。また中将は、英国の芸術批評家ラスキンの「すべての純粋で高貴な芸術は、戦争に基礎を置いている。戦の国家以外から偉大な芸術が誕生したことは、一度もない。私が、戦争が芸術の基礎だというのは、それは人類の徳と能力の基礎だという意味でもある」という言葉を引用し、「良い鉄は釘にならず良い人は兵にならず」といって軍人を軽侮した支那が結局どうなったかと問いかけながら、武士を中核とした日本が精緻な文化を築き上げた事実に注目して日本の文武教育にも感嘆し、
「英国の各省は日本に比べれば、魂も熱意も心も持ち合わせていない。英国女性は、日本女性の十分の一も民族の伝統精神を子供に教えていない。」
と放埓に過ぎる母国の教育を批判したのであった(2)。もしハミルトン中将が、現在の日本の外務文部両省と公立教育の惨状を目撃すれば、たちまち親日派から侮日派に転じ、当時のイギリス各省とイギリス女性を絶賛するに違いない。
大東亜戦争において我が国は尾崎秀実ら国体の衣をまとった共産主義者に国政を壟断され支那事変を解決できぬまま対米英戦に突入するという大失敗を犯した。我が国の政府軍部首脳の戦争指導に対する日本国内外からの批判は戦後半世紀を過ぎても絶えることはなく今後も絶えることはないであろう。しかし戦場における日本軍将兵の勇戦奮闘を賞賛する声は、連合軍首脳の中にすこぶる多い。
昭和十九年三月十五日、牟田口廉也中将率いる我が第十五軍は、インド解放の使命感を燃やし、インパールとコヒマに向かって進撃を開始した。第十五軍(第十五、三十一、三十三師団)は制空権と補給能力の欠如を克服すべく可能な限り軽装備で急進撃を図り、緒戦においては目覚ましい戦果を挙げた。中でも、勇将の誉れ高き宮崎繁三郎少将を先鋒とする我が第三十一師団は、驚くべし、わずか二十日間にチンドウィン河と三千メートル級の高峰を連ねるパトカイ山脈を横断、敵軍と交戦しながら約二百七十キロの行程を踏破し、四月六日にはインド北東部アッサム州の門コヒマを占領したのである。アッサム州を防衛するイギリス第三十三軍団長ストップフォード中将は、部下から「コヒマ占領さる」と報告された時、自分の耳を疑い「トヘマの間違いではないか、トヘマかコヒマか」と何度も聞き返したという。
まさに「神速」の名に値する我が第三十一師団の快進撃と、これを可能にした将兵の強靭な肉体、不撓不屈の闘志、国家に対する不動の忠誠心、今日の我々が遭遇したことのない想像を絶する艱難辛苦に耐える克己心に思いを馳せ、今日の日本を見渡した時、彼らが現在の我々と同じ日本人であり、我々が彼らの血を受け継いでいるなどとは到底信じられない。病弱な筆者など榮侍ではなくヘナチョコ侍である…。
インパール作戦は我が軍の敗北に終わったが、もし牟田口中将の企図した第三十一師団によるイギリス軍の補給基地ディマプール攻略戦が実施されていたならば、これは必ずや成功し、日本軍は膨大な戦利品を獲得して蘇生し、イギリス軍は潰乱状態に陥ったであろうことは、戦後にストップフォード自身が認めるところである(3)。我が第十五軍は圧倒的劣勢の戦況下で後一歩というところまでイギリス軍を追い詰めたのであった。
だからこそ今上陛下が皇太子として昭和五十年二月にネパール国王の戴冠式に参列された際、イギリス首席随員のマウント・バッテン元帥から、
「過ぐる戦争中、私が東南亜連合軍総司令官として、インド・ビルマ戦域で対戦した日本軍将兵は、その忠誠、勇敢、規律厳正さにおいて、古今東西無類の精強でした。あのような素晴らしい将兵は、今後いずれの国にも生まれることはないでしょう。」
と日本軍将兵を激賞する丁重な賛辞を捧呈されたのである(4)。
インパール作戦が終末を迎えんとしていた昭和十九年五月十一日、支那の雲南方面から、蒋介石の信任厚い衛立煌大将率いる中華民国軍の雲南遠征軍十九万六千人が怒江を渡り、文字通り雲霞のごとくビルマ東部国境付近に押し寄せ、六月二日に四万八千人の中国軍が拉孟城を包囲し、六月二十六日に四万九千人の中国軍が騰越城を重囲下に置いた。
これに対して雲南遠征軍を迎撃する我が軍は第五十六師団の一個師団約一万一千人のみ、拉孟守備隊は千二百八十人、騰越守備隊は二千二十五名に過ぎなかった。だが両守備隊は、米軍式装備と巨大な物量を誇る中国軍に対して鬼神のごとく奮戦し、拉孟守備隊は九月七日まで、騰越守備隊は九月十四日まで、一歩も引かずに陣地を死守し敵軍のビルマ侵入を阻止した末に壮絶な玉砕を遂げた。この間にビルマ東部の要衝ナンカンの築城を終えた我が第二師団が密かに東進し第五十六師団と合流、九月三日、約三十万人に膨れ上がった雲南遠征軍に対し総反撃の火蓋を切り、拉孟騰越の両城を救い出せなかったとはいえ、雲南遠征軍に戦死傷者約六万三千人の大損害を与え、中国軍のビルマ侵攻作戦を頓挫させたのである。この「断作戦」における我が軍の損害は戦死傷者七千三百人、我が第二、五十六師団は十五倍の敵に挑み、我が軍の九倍の損害を敵に与えたのである。蒋介石は日本軍の恐るべき戦闘力に驚嘆し、全軍に以下の特別布告を発し(5)、拉孟騰越を死守した日本軍人精神に「東洋民族の誇り」という最大級の賛辞を送ったのである。
「全軍将兵に与う。戦局の動向はわれに有利に展開しつつあり。勝利の栄光は前途に輝いているものの、その道に到達するまではまだなお遠しといえる。各方面の戦績を見るに、予の期待にそむくもの多し。諸兵、ビルマの日本軍を範とせよ。拉孟において、騰越において、またミートキーナにおいて、日本軍が発揮した勇戦健闘ぶりを見よ。それに比し、わが軍の戦績の、いかに見劣りすることか。予は遺憾にたえざるものなり。
将兵一同、一層士気を昂揚し、訓練に励み、戦法を考案し、困難辛苦に耐え、強敵打倒の大目的を達成せんことを望むものである」
また東京裁判却下未提出弁護側資料集に収められた中国側の資料によれば、支那戦線の日本軍各部隊は作戦終了後には、必ず付近の敵味方の戦死体を回収し、中国軍に攻撃される危険を冒してまで両軍戦死者の丁重なる慰霊祭を行った上で根拠地に引き揚げており、これを知った蒋介石は、この高潔なる武士道精神こそ寡(少数)をもって中国軍の大軍を撃破する日本軍の戦闘力の根源なり、と賞賛し、味方の戦死者に対する慰霊祭すらも行わない中国軍将官を「汝らは日本軍を見て慙愧の念に耐えずや」と叱責したのである。蒋介石にとって日本軍は中華民国軍の模範であった。
だからこそ蒋介石は台湾に落ち延びた後、彼の敵であり又友でもあった元支那派遣軍総司令官の岡村寧次元大将に救援を求め、大将から派遣されてきた元日本軍将校から成る軍事顧問団「白団」の指導を受け、米軍式教育を改めて日本軍式教育をもって中華民国軍を再建したのである。
また張学良も戦後にアメリカ人から、満州を失った後になぜ華北で一戦交えなかったのかという質問を受けた際、「たまごを石にぶつけるようなものだった」と自軍の力不足を認め、日露戦争の激戦地、遼陽・首山堡での日本軍の奮戦ぶりを挙げて、
「自分も日本式訓練を受けてきた。この点では彼らに敬服している。恨みは恨みとして、軍人してはすさまじいものがあった。」
と日本軍の精強ぶりを追慕したのである。以上は外国要人の日本軍に対する賛辞のほんの一部に過ぎない。他にもアメリカ軍のニミッツ提督やアイケルバーガー将軍、ソ連軍のジューコフ元帥なども日本軍を絶賛しているのである。またインドやインドネシアには両国の独立運動を支援した第一線の日本軍将兵に感謝する多くの人々が存在するのである。戦前の我が国は徴兵制を採用しており、日本軍の大半は、徴兵され国民の義務として参戦した一般国民であったから、連合軍首脳の日本軍に対する評価は、そのまま日本民族に対する評価と言ってよい。
それらを念頭に置いて今、帝国憲法告文を読む時、次の一節は真実の光を発して何と美しく輝いて見えることか。
「惟うに我が祖我が宗は我が臣民祖先の協力輔翼に倚り我が帝国を肇造し以て無窮に垂れたり。此れ我が神聖なる祖宗の威徳と並に臣民の忠実勇武にして国を愛し公に殉い以て此の光輝ある国史の成跡を胎したるなり。」
そして連合国が犯した無数の国際法違反行為を念頭に置いて、占領憲法前文を読むと、次の一節は虚偽の垢にまみれて悪臭を漂わせているではないか。
「日本国民は、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」
東京裁判検察起訴状は日本と交戦した連合国を平和愛好諸国民、平和的諸国家と称し(6)、連合国(国連)憲章第四条が連合国加盟条件として「平和愛好」を掲げており、占領憲法前文の平和を愛する諸国民とは実は連合国を指している(7)。
マッカーサーと彼の命令に従い前文を起草したGHQ民政局のハッシー海軍中佐に問う。汝らは連合国を平和愛好諸国民と詐称して慙愧の念なきや?連合国の何処に公正と信義がありや?一体いつ日本国民は連合国の公正と信義に信頼して自分たちの安全と生存を保持しようと決意したと言うや?日本国民たる筆者はヘナチョコ侍であるが、生まれてから今日に至るまで一度たりともそんな寝ぼけた決意をした覚えはない!
朝日新聞ら反日左翼勢力が占領憲法を崇拝し帝国憲法を嫌悪するのは他でもない、彼らは虚偽を好み、真実の光を浴びれば死滅する寄生虫だからだ。この虚偽の垢に湧く蛆虫どもを退治しなければ、日本の再興はあり得ないのである。
第一次欧州大戦前、ドイツを始め外国の国際法学者の一部が、戦争は自然法則の一なるが故に神意に適し従って善であり人類に幸福をもたらし正しき文化の理想に適合するものであると説き、この戦争性善説の根拠として、戦争が科学の発達を促し、勇気、服従、犠牲的精神等の美徳を養い、芸術の発達、文化の伝播を助けることを挙げた。だが我々日本人は戦争性善説をそのまま受容することはできない。それらが戦争の一面の姿にすぎないことは、大東亜戦争によって証明されたからである。アメリカ軍の無差別爆撃は日本の都市を焼き尽くし無数の文化的歴史的遺産を灰燼に帰せしめ、連合軍の対日占領作戦が日本の伝統的美徳とこれを涵養する教育、家族制度を破壊し、現在の日本の惨状を生み出した。
戦争は、孫子が言葉を換えて何度も警告するごとく、国家の存亡、民族の死生を決するこの世で最も危険な国策である。国家は戦勝の栄光を得ても莫大なる国力と将兵を失い、国民に数々の不幸をもたらす。故に「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり、戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」(孫子謀攻篇)なのであり、戦争性善説を採用して無邪気に戦争そのものを礼賛することは亡国を招く愚行である。
しかし日清・日露の両戦役、大東亜戦争における日本軍将兵の勇戦に対しては、我々は惜しみない賞賛と感謝の念を捧げても一向に構わないはずである。それは、戦争そのものを礼賛するのではなくて、戦争という国難の渦中で国家を守る為に活躍した我々の先祖の生き様を顕彰することであり、祖霊崇拝は我が国の伝統的美徳だからである。
戦国武将の真田昌幸・幸村父子は合戦の名人として多くの日本人に敬愛されている。特に九州島津家の武士に「真田日本一の兵、古よりよりの物語にもこれなき由…」と言わしめた大坂夏の陣における幸村の奮戦は、戦国時代の最後を飾った有終の美戦として今なお語り継がれ国民の胸を躍らせる。信州には二人を寡をもって衆(大勢)を撃破した軍神として祭祀する神社があり参拝者を集めていると聞く。日本人は決して二人を殺人鬼として糾弾しないであろう。ならば一万余の兵力をもって約二十五万人の張学良軍を粉砕した日本陸軍第二師団、二万余の兵力をもって約二十三万人の極東ソ連軍を満州国より撃退した日本陸軍第二十三師団も大いにその偉業を顕彰されるべきであり、大東亜戦争中、各地で寡をもって衆を撃破した日本軍将兵の英霊は、軍神として靖国神社に祭祀され、国民に参拝されて当然なのである。
(1)産経新聞社【地球日本史】参照。
(2)児島襄【日露戦争3】四一一頁。
(3)佐藤晃【戦略大東亜戦争】一七五~一七六頁。
(4)名越二荒之助編【世界から見た大東亜戦争】一六一頁。
(5)相良俊輔【菊と龍】二八九頁。
(6)小堀【東京裁判日本の弁明】十七~十八頁。
(7)筒井若水【国連体制と自衛権】二十三頁。
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東亜連盟戦史研究所
大東亜戦争の電子書籍 「戦争の天才と謀略の天才の戦い」国民のための大東亜戦争正統抄史1928―56
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うーむ拙者が研究執筆中の国民のための戦時国際法講義は未熟中の未熟だなぁ(涙)