【大日本帝国の遵法精神】
1、反戦平和という病魔
我が国の戦時国際法の権威、田岡良一博士によれば、第一次欧州大戦後、欧州諸国に流行した平和主義は、戦時国際法の研究に二つの悪影響を及ぼしたという。
一つは、大戦後に世界平和の維持を任務とする機構としての国際連盟の設立と不戦条約の締結を見た国際法学者の中に、戦争は今後減少の一途をたどり、戦時国際法は不要となることを信じてこの分野の研究を等閑視する傾向が発生したことである。大戦前、戦時国際法は、通例国際法教科書の約半分に達する紙面を与えられたが、大戦後に発行された欧州の教科書の多くは、戦時国際法の解説に全体の五分の一又は十分の一程度の紙面しか割かず、中には戦時国際法を単なる付録として取り扱い、又は全く省略するものまで現れたのである。
もう一つは、この平和主義をさらに煽り立てる為、暴力を本質とする戦争を法によって規律することは不可能であると唱え、戦争の惨禍の無制限性を強調して民衆の間に戦争嫌悪の念を強めんと計画する者が国際法学者の中にも生じたことである。
この二種類の学者の態度によって大戦後一時のあいだ戦時国際法学は暗黒時代を迎えたのであるが、これに対して田岡博士は、
「しかし大戦後の極端なる平和熱は、一九一四~一八年の長きに亙れる戦争に倦んだ人心の所産であって永続的性質を有すべきとは思われない。現に一九二八年に不戦条約が締結せられて後、武力の行使は却って頻発する有様となったことは覆い難い事実である。故に戦争法研究の実際的必要は大戦後必ずしも減少せず、又戦争嫌悪主義を煽らんが為に戦争法の拘束力を殊更に弱めんとする国際法学者の態度は、たとえ動機に於いて善なりとは云え、戦争が現実に生じたる時に及ぼす結果の憂うべきことを思えば排斥されるべきであると信じる。」
と批判し、戦時国際法の研究を軽視する風潮に警鐘を鳴らした(1)。
以上の田岡博士の見解は一九三八年に発表されたものであるが、翌年には、国際法学者によって煽り立てられた戦争嫌悪の反戦平和主義を利用して国力の増強(ベルサイユ条約破棄、ラインラント進駐、チェコスロバキア解体など)に成功したナチス・ドイツが、ポーランドへ侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発した。そして田岡博士が危惧した通り、大戦では交戦各国によって戦時国際法は蹂躙され、大規模な非交戦者(私人)と捕虜の虐待、虐殺が行われたのである。
連合軍の捕虜となった約千百万人のドイツ軍将兵の生死を描いた捕虜(パウル・カレル/ギュンター・ベデカー共著/フジ出版社、一九八六)によれば、国際赤十字は戦時中に、スターリンとヒトラーとの間に捕虜の処遇に関する協定を結ばせようと腐心したが、ヒトラーは、ドイツ軍兵士がソ連軍の捕虜になることを恐れなくなりドイツ軍の戦力が低下すると判断し、国際赤十字の申し出を拒否し、一方のスターリンも「ロシアには捕虜になる赤軍兵士などいない。戦死するか裏切るか、どちらかだ」と言い放ち、協定に関心を示さなかったという。
その結果、ソ連軍の捕虜となったドイツ軍将兵約三百五十万人の内、約百万人以上が死亡し、ドイツ軍の捕虜となったソ連軍将兵約五百万人の内、約三百万人以上が死亡した。いずれの捕虜の死も処刑、虐待、飢餓によるものである。両国ほど大規模ではないにしろ、アメリカ、イギリス、フランス、スウェーデン、ユーゴスラビアもそれぞれ国際法に違反して捕虜を虐待し虐殺した。ヨーロッパ戦線で発生した数々の捕虜虐殺事件の中で、とりわけドイツ・コサック騎兵師団を襲った悲劇は、自分自身を彼らの立場に置いてこれを読む者に「この世に救いの神は存在しない」と確信させるまでに残酷である。
帝政ロシア下のコサックは、三十六歳まで軍役奉仕する代わりにロシア皇帝から三十ヘクタールの土地を与えられていたが、一九一七年のロシア暴力革命の勃発後、レーニンのボルシェヴィキから富農(クラーク)として糾弾され、コサック軍はロシア内戦の最中には白軍(君主制支持勢力)と緑軍(反乱農民勢力)に加担し、赤軍(共産勢力)と一進一退の激戦を繰り広げた。だが白軍と赤軍の最後の対決であるクリミア決戦が赤軍の勝利に終わった為に、数万のコサック将兵が西へ逃亡し、敗者の陣営に属したドンとクバンのコサック地域では一九一九年から二十年の間に、約三百万人のコサック民族の内、三十万人から五十万人がロシア共産党によって虐殺され、もしくは労働力として強制収容所に連行された。共産党の指導部はこのコサック解体を「ソビエトのヴァンデ」と呼んだ(2)。
一九四一年六月二十二日ドイツ軍がソ連に侵攻した時、ソ連南部のコサック民族は「ソ連駆逐の時遂に至れり」と勇躍し、一九四三年以降、コサック騎兵一師団はドイツの友軍として参戦、ドイツ軍のヘルムート・フォン・パンヴィッツ中将の指揮下に入り、主にチトーのユーゴ・パルチザンと戦った。ドイツ敗北の間際、コサック騎兵師団とその家族は、アルプス南端に集結、ユーゴ・パルチザンの復讐から逃れる為に、イギリス軍に投降し武装を許されたまま捕虜となった。だがソ連より彼らの引渡しを要求されたイギリスは、コサックに、
「君達は一種の外人部隊として英軍に所属することも可能だ。太平洋に輸送されイギリス軍と共に日本軍と戦闘することになる。君達が所持しているロシア・ルーマニア・イタリア製の武器に使える砲弾がないので、もしイギリス軍に入隊したければそれらを引き渡せ、代わりに新しい武器を与える。」
と伝え、コサックを武装解除し、一九四五年五月二十八日、イギリス軍はコサック捕虜とその妻子六千五百人をオーストリアのクラーゲンフルトの北約百キロに位置するムール川沿いのユーデンブルク捕虜収容所に移動させた。橋の東側でコサックを待っていた者はソ連軍であった。イギリスは卑劣にもコサックを欺いたのである。スターリンのソ連がいかにコサックに執心しているかを熟知するイギリスは、ソ連の歓心を得るただそれだけの為に、コサック将兵とその家族を生け贄としてソ連軍に贈呈したのである。イギリス軍はコサックの捕虜と非交戦者に事実上の死刑判決を下したのである。
翌朝、イギリス兵の銃口が向けられる中、全階級のコサック将校は自分の運命を悟り、床にひざまずき、身も世もなく泣き、神に祈りを捧げた後、トラックに乗せられソ連軍に引き渡された。パンヴィッツ中将は将校五名と共にモスクワで裁判にかけられ絞首刑に処された。そして収容所に残されたコサックの女子供と、せめて彼らの命だけは救おうと必死に抵抗するコサック兵は、イギリス兵の銃剣に追い立てられ、ある女性は子供もろとも川に身を躍らせ自殺し、あるコッサク兵は森の中に逃げ込もうとしてイギリス兵に射殺され、最後に彼らは無理やりトラックと列車に詰め込まれ、多くの自殺者を出しながらオーストリアのソ連軍占領地に移送された。
彼らがソ連軍の手中に渡った直後、護送に当たったイギリス兵の多数がコサックの最期の合唱と鳴り響く軽機関銃の一斉射撃音を聞き、コサックが女子供もろとも銃殺されたことを悟ったのである…(3)。
従って世界各国が第二次世界大戦を真摯に反省し、戦争の惨禍の防止を国是とするならば、朝野を挙げて戦時国際法の研究に取り組むべきなのである。だが大東亜戦争に敗北した後の我が国は、戦前の欧州の覆轍を踏んで悪質な反戦平和の病魔に冒されてしまった。このことは国際法全訂版(田岡良一著/勁草書房、一九七三)を読めば一目瞭然である。この著書は全紙面数三百四ページの内、戦時国際法の解説にわずか三十一ページしか与えていないのだ。田岡博士といえども、戦争は無論のこと戦争研究さえも否定する戦後日本の異様な空気に抵抗できず、不本意ながらも第二次欧州大戦前の国際法学者の過誤を反復せざるを得なかったのであろう…。
その結果として、戦後半世紀以上の春秋星霜(年月)を重ね二十一世紀を迎えたにもかかわらず、日本の戦時国際法学は遺憾ながら今なお暗黒時代の真っ只中にあるのである。
(1)田岡良一【戦時国際法】十九~二十頁。
(2)ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ベルト【共産主義黒書犯罪・テロル・抑圧<ソ連編>】一〇七~一一一頁。
(3)【捕虜】三五三~三五九頁。
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