それなのに日本統治に抵抗した「三・一運動」100周年を前に、大統領府の民情首席秘書官(政権の事実上のナンバー3)であるチョ・グク氏は「日帝の弾圧で約2万人が殺害され、約5万人が投獄された」とトンデモない数字を出してきたそうだ(【新・悪韓論】「三・一運動」犠牲者数が一挙3倍に!? 元の数字も“伝聞”なのに・・・事学主義という「病」)。
もし三・一独立運動が暴動化せずに合法的な表現に止まっていたら、朝鮮総督府は独立運動を弾圧しなかったのではないだろうか。朝鮮独立運動家にして大韓民国臨時政府外交次官の呂運享が1919年11月に上海から来日し、原敬内閣国務各大臣に朝鮮の独立を訴えたにもかかわらず、呂は逮捕されなかったばかりか、原内閣によって手厚くもてなされたからである。
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大阪毎日新聞 1919.11.29 (大正8年) 上海仮政府の朝鮮独立の密使 窃かに来朝した外務次官呂運享熱心に要求の精神を説く
上海に於ける朝鮮仮政府の外務次官呂運享は曩に仮政府の意志を我政府当局に表明すべく密かに来朝せしが当局は同人の言動其他一切につきこれを新聞紙上に掲載する事を禁止しいたるが一昨日これが解除を得たれば左に之を掲ぐ。
鮮人陰謀団の中枢たる上海仮政府の外交次長呂運享氏は、基督教組合教会牧師木村清松氏の勧説により仮政府の真意のある所を我が政府当局に陳べ、また当局の意見をも聴取すべく去八日上海出発来朝せんとせしも、仮政府の同志は皆その危険なるべきを憂慮してこれを阻止せるも、これが斡旋に当れる藤田中日公理教会総理事が我当局が呂に対する身体の安全自由を絶対に保障する旨熱心に力説せしも、彼等は耳を藉さざるより、遂に出発延期の余議なきに至りしが、其後藤田氏は一同を安堵せしむべく最後の手段として自己の妻子を人質として上海仮政府の手に委ぬる事を申出でしが、頑冥の徒は尚聞き入れざるより、結局呂は姿を晦まして埠頭を出づる事とし、去る十四日腹心二名と共に変名して郵船春日丸に身を潜め、藤田氏は影ながら附添いて上海を出帆せし後初めて本名を名乗り、十六日無事長崎に上陸、鉄路門司に抵り十七日午後七時十分下関発特急列車の一等寝台室に入り窓掛深く垂れ籠めて人目を忍びつつ東上せり(門司来電)。
李堈公事件は全然知らぬ 政府当局が陳情を腹蔵なく聴取してくれたのを感謝する
上海朝鮮居留民団長呂運享は中日公理教会総理事藤田九皐氏の斡旋にて去十八日着京、連日田中、床次、野田各大臣、水野総監、古賀拓殖局長等と会見し意見を交換しつつあり。
呂氏は三十三歳広額美髯の堂々たる人柄にて長く欧米に留学し巧に英語を操れり。氏は曰く、
内閣諸公と会見の結果はこれぞという具体的の結果を見なかったが、我々の忌憚なき意見を傾聴して呉れたことは感謝して居る。二十九日か三十日出発の予定で帰途斎藤総督を訪問の上、上海に帰り総理李東暉氏以下仮政府の人達に会見の顛末を話すつもりである。私は牧師の出でこの運動は決して陰謀とか暴動とかに渡るのではない。
尚李堈公陰謀事件については驚愕しつつ語る。
私は全然之と関係がない、現に着京後之を知った程である、首魁だという全協という人物も何う云う人か一寸も知らぬ、金春基は公妃の弟に当り幼少の時から欧米に渡り彼地の学問を学んで確か今春帰朝された人である。
独立に関する三信条 我々の要求は世界の大勢に順応したものであると呂運享は斯く語れり。
呂運享は愈々二十九日帰国の途に就くべく更に語って曰く、
私は朝鮮の独立主義者で最初から此運動に従事して居る。欧洲大戦の勃発するや朝鮮が世界の隅にちぢんでいるのは遺憾である。此世界的変転期に際して朝鮮も何かの新レコードを留めねばならぬと考えたが、愈々戦の幕が閉じて、平和の鐘が鳴渡った時、吾々は愈々為すべき時が来たと思ったので、我々の同志金さんは直に巴里に急行し、後に残った我々は三月一日以来朝鮮民族の独立運動を起したのである。
私は独立の理由として三つを挙げる。民族的自覚に基く事、独立は世界的潮流である、この運動は神の思召に依る事である。而も独立反対説が二つある。一つは日本は自己防衛上朝鮮を取って置く必要があると。之は露国が現在の如く潰滅した以上最早その理由にはならない。寧ろ独立させて真の東洋団結を図った方が日本のためである。第二には朝鮮人には実力がないから独立してもやって行けぬと。成程我々は兵力こそ微弱だ。併し朝鮮民族は既に覚めた。必ずやって行ける確信を持って居る。
報知新聞 1919.11.29 (大正8年) 一千万の鮮民にも生存権があると火の如き呂運享氏の熱弁 絶対の自由平等を楯に鮮人の代表的意見を発表
米国に於て最急激の朝鮮独立運動者と目さるる李鐘範一味の社会革命党系に属し上海仮政府の総理大臣李鐸の股肱として同政府の外務次官格たる呂運享氏一行の東京入りは現在錯綜せる朝鮮問題の渦巻の中に特殊の興味を以て迎えられたが、而も其一行中には今春の朝鮮暴動全羅南道方面の巨魁にして江華島に遠島中の張徳秀が加わってるので、世上好奇の瞳は彼等の行動の上に集中せられた丈け二十七日午後三時より帝国ホテルに開かれた呂氏と記者団との隔意なき意見交換は最も重大な意味を含んだものであった。
此の夕べ白面美髯の呂氏は、頬髯参々たる張氏と倶に。輝かしい電灯の下に立ち、京城訛の鮮語で一千万鮮民の幸福の為め抱懐せる彼の思想の一端を吐露して曰く、
「餓えたる者が食を欲し乾ける者が水を求めるのは自己の生存権の為めに当然の要求であって此れを阻止する事は何人と雖も出来ない。日本人も生きて行く上には生存欲がある。我々朝鮮人も生存権がある。されば日本人の生きるのを鮮人も肯定する如く鮮人が民族的に自覚し神が創造した自由と平等とを欲するのを日本政府が妨害する権利はあるまい」
と先ず絶対平等論を説き、
「我々の朝鮮独立は民族的自覚と云う大なる潮流に掉し自由と正義を高唱するもので単に日本が種々なる打算的見解からして朝鮮を併合する必要があるとすれば我々鮮民も朝鮮の独立を要求する。」
とて彼が併合前後より朝鮮を亡命し独立運動に尽瘁した経過を火の如き熱弁で叫び最後に「我々は戦って後平和を獲得すべきか、戦わずしては人類享有の平和を獲得し能わざるや」と滔々一時間二十分に亙り彼れの把持する朝鮮独立理想論を説き立てた。
忌憚なき意見交換 呂氏の案内者 藤田九皐氏談
上海に在る鮮人融合の楔となり呂運享一行を東京へ案内せる牧師藤田九皐氏は語る
「呂氏を東京に連れ出すに就き、上海仮政府からは反対されたが漸く此処まで到達した此れは重に古賀□□氏の尽力によるもので十八日上京以来水野総監、野田逓相、床次内相、田中陸相等と会見し、呂氏は此間に忌憚なき独立論を試みた。何れも呂氏の本論には異論があったらしいが、氏の穏当な人格には賛意を表し張徳秀氏の如き国事犯の一行が加わり居るに拘らず有ゆる便宜と同情を注ぎ、二十四日の如き特に赤坂離宮の秘苑を拝観せしむる等、有り余る優遇には一行も非常に感激して居る。氏の独立思想は鮮民を代表する理想論で氏は敬虔なるクリスチャンである、尚お江華島遠島中の張徳秀氏も今度は罪の軽減を乞い倶に日鮮融合の為めに努力して貰い度いと思って居る、元来上海の仮政府なるものは仏国租界にあったが現在は仏国領事の為め解散を命ぜられ唯暗中に或る組織をして居る位のものである」と。
貴族院は呂運享の赤坂離宮拝観を皇室の尊厳を汚すものとして殊更に咎めだて原敬内閣を糾弾した。この原内閣の寛容方針と貴族院の糾弾姿勢について当時の新聞各社には賛否両論があったが、当時の朝日新聞の主張は、現代の我々反朝日新聞陣営の期待に違わぬ素晴らしい内容で(笑)、韓国観光公社の影響下にある現代の朝日新聞の親韓反日的説教を朝日の首を刎ねるギロチンブーメランに変換するのである。
東京朝日新聞 1919.12.11(大正8年)朝鮮統治の方針(呂運享事件を如何)
曩に斎藤総督の赴任するや、新総督の方針が如何なるものなるやを見るの遑もなく、一部の鮮人は非謀を廻らして爆弾事件を惹起せり。陛下が特に朝鮮統治の聖勅を下し、同仁同愛の叡旨を伝えられたるも、不逞の輩は公明の心を以て之を容れんとせず。斎藤新総督が鋭意抑圧主義の施政を改めて、一視同仁の方針を取らんとするも彼等は之に頼りて鮮人の幸福を享受せんとはせず。彼等不逞の一団は、目的此に在らずして彼に在るなり。善政も公明も同仁も温情も、そは彼等の関する所ならずして、彼等は日鮮共存の大義を根柢より覆して、日本より独立せんとするなり。
かくの如くして去る三月以来組織せられたる上海に於ける朝鮮独立団の密謀は、益其の連絡を巧にして、竟に李堈公を拉し去りて之を首領に仰がんとするに至れり。此の思想の根柢より来れる密謀運動に対しては、政府たるもの深く考慮を須いざるべからず。若し一たい其の方針を誤らんか、其の国威に関すること甚大にして、引ては東洋の治乱にも及ばん。
然るに我当局者は、該独立運動の主唱者として、上海仮政府と称するものの有力なる地位にありし呂運亨なるものを招致して之を引見し、且待つに相応の道を以てしたり。而も彼は在京幾日、白昼堂々帝都の中央に於て、朝鮮独立を宣伝して憚るなし。然も政府は之に対して何等の制裁を加えず、吾人其の何の意たるやを知るに苦しまずんばあらず。恐らく当局者は之に対して何等の方策ありしならんも此の如きは大なる失態と言わざる可からず。若し同仁主義の下にこれ迄も許すとならば、何に依って我国法は厳然たるを得べきや。
思うに朝鮮統治の新方針としては官吏の待遇を同一にし、義務教育を普及し其の年限を内地と同等と為し、鮮人裁判官、小学校長等をも内地人同様の権限を与え、言論集会の自由、地方自治の改善を施す等、総て温情主義を以て公明の政を布かんとするにあるが如し。此等の成績は須らく今後に徴せざる可らざるも、其の統治の方針としては、吾人の賛同する所なり。
然れども是等の公明の方針に背反して、根本的に不企を謀るが如き徒に対しては、秋毫之を仮さず、以て恩威併び行わるるを期するは当然の処置たるべきなり。然るに此の限界を忽にして、徒に温情主義の一方に流れんか、是れ容す可らざるを容すものにして、国家の権威、国法の神厳は立地に侵されん。
若し三月の大暴動に懲りて取締を緩めんとするなれば、是れ言論集会の自由と国法侵犯の兇悪とを混同するもの、須らく膾に懲りて葵を鵜呑みにすと言わんのみ。而して若し此れが朝鮮当局の方針ならずとせば政二途に出るは憂なき能わす。今後の朝鮮統治は此の如き軽卒の処置を以てして、果して全きを得べきや。
要するに当時の朝日の主張は、大正天皇の聖勅に基く朝鮮統治の新方針を受け容れずにあくまで朝鮮の独立を企てる不逞の輩は断固としてこれを取り締まるべし、であった。
現代の朝日新聞が百年前の大日本帝国の朝鮮統治を非難するならば、原敬内閣よりも朝鮮独立運動に対して断然不寛容であった百年前の朝日新聞をも非難し、朝鮮人に謝罪した上で過去の報道責任を引き継ぎ潔く自主廃業すべきである。
朝日新聞の親韓反日的説教を朝日の首を刎ねるギロチンブーメランに変換するために、終わりブロガーへ執筆意欲を与える一日一押人気ブログランキングをクリック願います。
・韓国人を震え上がらせるための日本憲法学の密教
・東京書籍のウソを暴く鈴木安蔵-明治の自由民権派を代表する交詢社系の憲法私案
・今こそ法の支配を尊重する平和主義を実現する秋-大日本帝國憲法義解第七十七條解説案
・300枚のユニークな広告が語るこんなに明るかった朝鮮支配
・NHKをぶっ壊す! 受信料不払い編―日本放送協会の放送受信料を合法的に支払わないための放送法対策マニュアル
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