でも福井義高教授が日本人が知らない最先端の「世界史」の執筆にあたり、所長の戦史を参考にしてくれたようなので、少し元気を出して国民のための大東亜戦争正統抄史1928―56を以下のように修正しました。
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22、永久抗争
それから二日後の昭和十五年(一九四〇)十二月二日、国民党中央党部の拡大総理紀念週に出席した蒋介石は、
「敵軍閥が一昨日、汪逆賊のニセ組織を承認し、同時に、敵とニセ組織がニセ条約を発表した。和平のデマ攻勢に失敗した敵が採った、道理に反する荒唐無稽な行動である。この種のホゴ同然のニセ条約は、ニセ組織が、自由意志を完全に封じられて、甘んじて日本の奴隷となることを承認したものであり、根本的には一顧だの価値もない。しかし、中日両国の仇恨史上、将来ひとつの重要な資料となるであろう。しかも、この一枚のニセ条約は、中日両国の戦禍を無窮に延長し、中日両民族間に、百世にわたっても解けない仇恨をもたらすものである。これは、近衛内閣(第二次)最大の罪悪である」
と近衛内閣を非難し、この日の日記に次のように書き記した(1)。
「近衛は、無知無能にも、汪政権を承認したことで、中日両国間に解くことのできない仇敵関係をつくりだした。これは敵国(日本)のためにもまことに残念なことであるばかりでなく、さらに東亜のためにも危機感を深めるものだ。」
我が国では昭和十五年十一月十三日の第四回御前会議が、日満華共同宣言案並びに日支基本条約案(政府提出)と支那事変処理要綱(大本営提出)を可決し、それまで政府軍部民間が各個に同時並行していた多数の和平工作(当時の噂では十七本、資料では十三本)を政府の一筋にまとめ、汪兆銘政権の承認が完了する十一月末まで汪蒋合作を建前として実効的な最後の対重慶和平工作を行い、和平不成立の場合は「情勢の如何にかかわらず長期戦方略への転移を敢行し飽く迄も重慶政権の屈服を期す」と決定した。御前会議では近衛文麿首相が原案可決と認める旨を述べて宣言案条約案と支那事変処理要綱を最終決定に持ち込み、会議の終了を昭和天皇に言上したのであるが、この処理要綱提案理由には汪政権承認の危険性が次のように明記されていた。
「然れども新中央政府承認迄に重慶側を新中央政府に屈服合流せしめ以て新中央政府をして真に新支那に於ける新中央政府たるの実を備うるに至らしむべきは帝国として最も希求する所にして殊に新中央政府承認後に於ける対重慶諸工作の困難性を予想せらるるに於いて然りとす」
それにもかかわらず十一月二十八日首相官邸で行われた連絡懇談会(出席者は首相、外相、陸相、海相、参謀本部次長、軍令部次長、興亜院の鈴木貞一政務部長)は、汪政権承認十一月三十日を議決し、「十一月三十日までに停戦申込ありたる場合においても承認期日を変更することなし」と決定してしまった(2)。
そして浙江財閥の有力者にして蒋介石と親交を結ぶ銭永銘(交通銀行総経理)に日中和平の仲介を依頼する対重慶工作を担当していた外務省の田尻愛義参事官が香港から東京に「泣いて廟議の再考を乞う」旨を繰り返し打電したにもかかわらず、近衛内閣が銭永銘工作を打ち切り汪政権を公式承認した後、日中和平工作の路線は、昭和十九年末に繆斌(ミョウヒン)工作が浮上するまで約四年ものあいだ完全に閉塞状態に陥ったのである。これが外交的にも軍事的にも我が国の致命傷となった。
汪政権の樹立後、我が国政府は、汪らを見捨てた上で重慶政権を相手として和平交渉を行えず(見捨てるべきであったが)、苦肉の策として、蒋汪両政権合流による国民政府の統一と日中和平提携の実現という二段階の和平案を採った。しかし斎藤隆夫代議士が議会演説(昭和十五年二月二日)の中で指摘した通り、中国共産党に容共抗日を強要された蒋介石の重慶政府と、反共親日を標榜する汪兆銘の新政府は氷炭相容れざる「讐敵」の関係にあり(3)、たとえ第二次国共合作が決裂したとしても、面子を重んじ、汪兆銘を裏切り者、逆賊として激しく憎悪する蒋介石ら重慶政権が、汪政権との合流や汪を通ずる対日講和を受諾することは「夢物語」に等しく、汪を経由しなければ蒋と和議を開始しないという主張と蒋汪合流の要求は、講和そのものを絶対に否認するという「第一次近衛声明」と同一の結果を招き、思慮ある政治家の執るべき態度ではなかった。それにもかかわらず蒋汪合流に固執した我が国の政府は、遂に支那事変を解決できないまま国家を日米開戦から敗北へと導き、我が国の敗戦後に勃発した国共内戦において、中国共産党は、支那事変により消耗した国民党を台湾へ追い落として支那大陸を制覇し、一九四九年に中華人民共和国を樹立したのである。
43、検察の苦悩
だが汪兆銘工作は第一次近衛声明と連動しており、支那事変を決定的に長期化させてしまった。近衛首相の行動は終始一貫支那事変の拡大長期化を画策しており、近衛文麿の意図は日中和平の実現とは正反対の方向に向いていた。それらのことは、日支条約案と支那事変処理要綱を可決した第四回御前会議(昭和十五年十一月十三日)冒頭における以下の近衛自身の挨拶によって説明されていた(2)。
「政府より提出致しましたる案件に就きまして御説明申し上げます、帝国は昭和十三年一月十一日御前会議決定の支那事変処理根本方針ならび昭和十三年十一月三十日御前会議決定の日支新関係調整方針に基き、従来重慶政権に対し其の反省を促し、急速に支那の全面的屈伏を強要する共に、新なる政治勢力の育成を企図し、これを実行し来ったのであります。
然るに現下の情勢においては、短期間に之が屈伏至難なるやに察せらるる一方、南京に樹立せられたる新政府は逐次其の政治力を増大し来りつつあるのみならず、該政府と帝国使臣との間に行われたる条約交渉は今や政府において之が採否を決すべき時機に到達したのであります。
帝国はこの際、新政府を承認し、其の政治力を強化培養して之を我が方の事変遂行に協力せしめ以て飽くまで事変の完遂を期するの方途に出づることが必要と認められるのであります。
依て政府は別紙条約案に対し調印締結の手続を執らんとするものであります、もっとも条約調印後、重慶政権の屈伏を見る場合においては更に新なる処断に出づべきこと勿論であります。」
加藤高明内閣の司法大臣として治安維持法の制定を主唱した小川平吉はかねてより「昭和塾講師および組織者に赤化の徒が多く、累を近公に及ぼす」と懸念し、知人と秘かに善後策を協議していたが(小川平吉日記昭和十三年十月二十一日の条)、不幸にも近衛の赤い人脈に対する小川の危惧は的中していたのである。
昭和三年(一九二八)六月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締に従事しながら国際共産主義運動の調査研究に没頭した後、衆議院議員となり中野正剛と共に東條内閣倒閣運動に加わった三田村武夫によれば、昭和十六年(一九四一)十月十五日に検挙された尾崎秀実と特別の関係にあった陸軍軍務局関係者は、尾崎の検挙に反対であり、特にドイツ大使館員としてドイツ駐日大使オットーの信頼を得ることに成功していたリヒャルト・ゾルゲとの関係において、陸軍は捜査打ち切りを要求したが、十六日、近衛内閣が総辞職し、東條内閣の出現となり、尾崎秀実の取り調べによって尾崎と近衛文麿との密接なる関係が浮かび出てきたことを知った東條首相は、この事件によって一挙に近衛を抹殺することを考え、逆に徹底的な調査を命じたのである。
しかしながら時は日米開戦直後であり、日本政治最上層部の責任者として重要な立場にあった近衛及びその周辺の人物をこの事件によって葬り去ることが如何に巨大な影響を国政に与えるかを考慮した検察当局は、その捜査の範囲を国防保安法の線のみに限定せざるを得ず、彼等の謀略活動をできる限り回避すべく苦心したという(3)。
国際共産党諜報機関検挙報告には、「要路高官の信任を博したる尾崎は、単に政治中枢の秘密を探知するに止まらず秘かに抱懐するコミュニストとしての新体制理論を協同体論に偽装して政府の方針を歪曲せんとの謀略策動をも併せ行うに至れるも失敗せり」と記述されているが、尾崎の謀略策動の中核たる、東亜協同体論によって装飾された支那事変の拡大長期化工作に対する言及は無く、犬養健が検事に「尾崎秀実、西園寺公一が雑誌等に論文を執筆して汪兆銘工作が日本の執るべき唯一の道であることを強調していた」と証言しているのに、検察は、共産主義者の尾崎が反共和平を掲げる汪工作を推進したその謀略的意図や、尾崎と影佐禎昭ら陸軍の革新幕僚との関係を追及しておらず(4)、ゾルゲ事件の被逮捕者は僅か三十五名に過ぎない。
昭和十六年十月十日に特高警察に逮捕された元アメリカ共産党員の宮城与徳は、刑事の取り調べ中に築地警察署の二階から飛び降りたものの灌木の上に落ちて自殺に失敗した。宮城は心の鍵を自損して放心状態になったのか、訊問再開後、別人に生まれ変わったように心中に秘めていたゾルゲ機関の全容を延々と自白した。その規模の大きさ、その主要メンバーの社会的地位、その国際関係を知った刑事たちは肝を潰し、東京刑事地方裁判所検事局の吉河光貞検事に指示を仰いだ。尾崎秀実を近衛文麿側近の輝ける星の一人と認めていた吉河検事は、元アメリカ共産党工作員の自白だけでは尾崎を逮捕できないと判断し、警察に裏付け調査の開始を指示し、警察はすぐに多数の証拠を発見した。しかし宮城の自白を裏付ける証拠を入手した検事と刑事たちは、証拠が示す事態の余りの深刻さに恐怖し、却って尾崎の正体と事件の真相を受け容れられなくなり、彼等は尾崎の無実を信じ込もうとして代わる代わる宮城に嘆願するように「これは本当か?」と尋ねたのである。宮城与徳はあきあきしながらもきっぱりと「本当です」と答え、検事刑事たちを観念させた(5)。
さらに宮城は検事訊問(昭和十七年三月十七日)に対して、
「近衛首相は防共連盟の顧問であるから反ソ的な人だと思って居たところ、支那問題解決の為寧ろソ連と手を握ってもよいと考える程ソ連的であることが判りました」
とまで証言した(6)。昭和十七年十一月十八日、近衛は中村光三予審判事から僅かな形式的訊問を受け、「記憶しません」を連発し尾崎との親密な関係を隠蔽した(7)。国家総動員法や大政翼賛会による立憲自由主義議会制デモクラシー破壊に猛反対した鳩山一郎(政友会)が日記(昭和十五年十一月一日の条)に、
「近衛時代に於ける政府の施設凡てコミンテルンのテーゼに基く。寔に怖るべし。一身を犠牲にして御奉公すべき時期の近づくを痛感す」
と書いたことは正しかったのである。
78、狂気の戦争指導班参謀
この六巨頭会談の決定は、東アジアを共産化に導く愚劣な外交方針であったばかりか、我が国の政府がローマ法王庁に日米和平の仲介を依頼するための好機を潰してしまった。
昭和十六年十一月二日、国策再検討終了後の東條首相上奏の際に、昭和天皇は、我が国とローマ法王庁との間に連絡のある事が戦争の終結時期において好都合なるべき事、又世界の情報蒐集の上にも便宜あることならびに、法王庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考えて、東條首相に「時局収拾にローマ法王を考えてみては如何かと思う」と提案され、バチカン市国への公使派遣を要望された(3)。東條内閣はこれに同意し、東郷外相はバチカン特派公使としてフランス大使館参事官の原田健を起用することに決め、この人事を昭和十七年(一九四二)二月二十四日の閣議に附議決定、上奏御裁可を経て二十六日に発令し、外務省は次の談話を発表した(4)。
「今般政府はローマ法王庁との友好関係を一層緊密ならしむ目的をもって原田公使をヴァチカン市へ特派するに決定した。現下世界の情勢に鑑み、かつ大東亜圏内に多数のカトリック教徒を包含する実情等より見て帝国と法王庁との親善関係が増進せられ連絡が一層緊密化せらるることの有意義なるはあえて贅言を要せざるところである。」
昭和十五年十一月十三日の第四回御前会議は、日中和平工作の路線を政府の一筋に絞り、和平工作期間を最大で十七日間に限り、蒋介石が絶対に受け入れない汪蒋合作を和平工作の建前としたのだから、この御前会議の決定内容は事実上の日中和平工作の打ち切りであった。だから近衛文麿は容赦なく銭永銘工作を打ち切り汪政権を公式承認した。その結果として日中戦争は決定的に長期化し、汪を支持する日本と蒋介石を支持するアメリカとの関係は著しく悪化したのである。
この結果の原因を国家神道や明治維新や福沢諭吉の脱亜論に求める歴史評論(笑)は荒唐無稽なホラ話である。杉山メモ上にある第四回御前会議の議事録を読み、「脱亜論、国家神道、明治維新が日本を日中戦争から日米戦争に引きずり込んだのだ!」と思考する人は、狂人以外の何者でもない。
東條内閣は汪兆銘の中華民国南京政府に操を立ててハルノートを拒絶し対米英開戦を決断した。これは福沢諭吉の脱亜論とは全く正反対の行為、むしろ脱亜論を否定し蹂躙する決断ではないか!
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