GHQのWGIPは知識と判断力を欠く児童生徒(1933年~1945年生まれ)を洗脳することに大成功したが、当時の大人たちには余り効かなかったようである。そのことはサンフランシスコ講和条約の発効年すなわち1952年12月9日の衆議院における山下春江代議士の東京裁判糾弾演説によっても証明される(戦後民主主義の出発点-東京裁判の正当性と合法性を完全否定した自由党・改進党・社会党)。
WGIPを相続し強化している戦後民主主義洗脳狂育を打ち破る東京裁判却下未提出弁護側資料中に、溥儀の家庭教師であったレジナルド・ジョンストンの「禁苑の黎明」の摘要とジョージ・ブロンソン・リーの「満州国出現の合理性」の摘要がある。実は敗戦前の朝日新聞社は、この二人を直接取材し、彼らの満州事変に関する意見を報道していた。
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醜状を顧みよ、支那!日本は正道を行く(東京朝日新聞 1931.10.14)
遠東雑誌社長リー氏の痛論
上海発行のアメリカ紙『遠東雑誌』(ファー・イースタン・レヴュウ)社長兼主筆ジョージ・ブロンソン・リー氏は十一日来朝、外務省その他実業家等を歴訪し満洲事変に対する日本側の代表意見をただすため一週間東京に滞在の予定である。同氏はアメリカ屈指の支那通でその論説はアメリカ識者を指導する力を持っている。十二日夜帝国ホテルに氏を訪いその満洲事変に関する意見を求めると『私の意見はこの論文に尽きているから』とて最近発行の『ファー・イースタン・レヴュウ』所載『条約の効力』と題し、氏自ら執筆した長い論文を示した、以下その論文を約める。
日清戦争の結果、遼東半島は一旦日本の物となったが、露、独、仏三国干渉のため三千万テールの金と引換えに支那に返した。次いで露支密約により満洲は事実上ロシアの領土となった。それから日露戦争の結果日本はロシアから満洲における権利及び鉄道を譲り受けその開発のため多大の資本を投下しているのでそれを保護する必要上、一九一五年支那と条約を結んで租借期間を更に九十九年延ばした。これがいわゆる二十一ヶ条の要求で、最近支那は威迫による契約であるからそれは無効であるといいだした。
今日における日支の紛争は偏にこの条約の効力の有無に係っているようである。しかし支那が従来のいきさつ即ち歴史を無視してただ二十一ヶ条だけを論争の種にヴェルサイユ会議、ワシントン会議と事ある毎にそれを持だすのは無理である。そんなことをいえばかの日本の遼東還附も威迫による契約であるから日本は支那に三千万テールの現金を戻しさえすれば遼東半島は永久に日本の領土である訳だ。
日本は満洲に十五億円の投資をなしているばかりでなく、その経済的必要、国防の安全、国家の名誉と威厳をかけている。日本に取って、この一九一五年の条約を廃棄することは国家的自殺ともいえる。ここにまた日支紛争の源があるのである。この満洲における日本の既得権問題が解決されなければ日支通商も日支親善もあり得ない、中村大尉事件、万宝山事件、朝鮮における支那人虐殺事件その他三百余件が日支間に未解決のまま残されている。
支那はその解決策として国際連盟、ケロッグ不戦条約その他世界の同情なるものを利用して日本の武力を封じ、一方ボイコットを持って日本を経済的に圧迫しようとしている。日本が事満洲の既得権に関する限り絶対に第三国の干渉を排撃し必要とあれば全世界をも相手取りて争うことを辞せないことを誓っていることを支那は忘れているのである。しかのみならず支那はケロッグ・ブリアン不戦条約について重大な見落しをしている。即ちこの不戦条約には自己防禦及び既得権擁護の権利の場合が保留されていることを見落しているのである。日本の満洲におけるはなおイギリスのインド及びエヂプトにおける―アメリカの中米地方における―フランスのモロッコにおけるが如きものである。
これは単なる政略、政党あるいは個人の問題ではなく実に一国の運命に関する問題である。自分保存という生命に関する本能に基いているのである。満洲における支那の宗主権は日本といえども認めている。しからば支那はその宗主権を如何に行使したか、国際の信義を重んじたか、満洲の福利を計ったか、治安を維持したか、また外国資本から成る企業を保護したか?満洲における権力の濫用は近代まれに見る図である。
しかるに日本は満洲に十五億円を投じその地方の繁栄に努めて来たがあのままでは無に帰しようとしていたのである。満洲の支那官憲は七十億ドルもの無価直な紙幣を発行して農民から穀物を取りあげ、それを現金に代えて巨大な軍隊を養い将軍連の私腹を肥やしていた。支那は盛んに国際的道徳を説くが日本が事実を以って説くところも聴く者をして肯かせるものがある。支那は日本の侵略を説き不戦条約違反だとするが、日本からして見れば自己防禦から出た行為即ち正当防衛というだろう。元来国際公法なるものは国際の伝統、習慣及び力から成るのであって口先ばかりの理屈ではない。
支那は自己の外交を支持するに力を以てせず、ボイコット、ストライキその他の排外運動なるものを武器として戦う、支那は常に国内で戦争ばかりしていてろくに自分の国を冶めないで外国の干渉は排撃するが外国と事が起ると第三国の干渉を希望している。今日の紛争の種は支那がまいたようなものだ。即ち国内を治めず、国家の権力に伴って存する義務を怠っていた結果である。一九一九年以来、一強国として建直すに足る金額を浪費し、五百万の大軍を抱きながら外敵を防げず日本軍の十倍に当る兵隊を持っていながら強い隣国が弱い国をいじめると世界に泣きつき、国際連盟に、物々しい言葉で訴えても仕方のないことであろう。
"理想的の皇帝"執政の信任を一身に集めた英人教育顧問ジョンストン氏秘史を語り絶賛の言葉ロンドンにて武内特派員十九日発(大阪朝日新聞 1934.1.21)
満洲国はいよいよ帝政になり執政溥儀氏がその帝位に登られるという報道はイギリス新聞否全ヨーロッパにつたわり、ヨーロッパの新聞を賑している。外人のクラブなどへ行くとその噂で持切り『溥儀執政はおいくつだ』『いつ皇帝になられるのだ』とわれわれ日満人を取巻いてここもと日満人万能の態だ。かれらは満洲国の存在などを疑おうなどとはしない。満洲国は儼然たる存在だ。殊に帝政になれば国の基礎もますます定まり、リットン報告書や国際連盟に気兼ね遠慮していた連中までがこれで満洲国否認の声はおさらばを告げて満洲国承認の舞台に向け飛躍するのだと朗かな物語りで春宵の更くるを知らない。
そこでいずれの支那関係者も思出すのは溥儀執政が宣統帝のころ教育顧問として信任を一身に集めた英人サー・レジナルド・ジョンストン氏である。氏は支那にあること三十年、その間一九一九年から一九二五年まで七年間溥儀執政の教育顧問を勤め、今はロンドン大学支那学教授としてロンドンの郊外リッチモンドに日満、支三国関係万巻の書を蔵して読書三昧に耽っている。殊にこれは知る人は少いが、氏のロンドンの宅には溥儀執政の令妹を夫人とし、鄭英才という玉のような赤ちゃんを挙げて睦じく暮している国務総理鄭孝胥氏の令孫に当る鄭●鼓氏が起居してロンドン大学に通学し英語の勉強を続けていることだ。
記者は満洲国帝政の吉報を受取るや直にジョンストン氏と鄭氏にその喜びを伝うべく電話でお伺いを立てるとジョンストン氏自身電話に出て『そう確定しましたか、実に嬉しい』と二つ返事ですぐ来いと会見を承諾した。キュー・ガーデンで電車を捨てて郵便配達の教えてくれた左側の大きな家を目差して急ぐとなるほど大きな構えだ。東洋味たっぷり白堊造りの二層楼がジョンストン氏の邸宅だ。庭の手入れ、庭樹の趣など一目で東洋趣味を解する大人の住居だと首肯される。
奥深い書斎に案内されると、ジョンストン氏はいよいよ溥儀執政が皇帝におなりになられるですって、実に嬉しい、お目出度うと満面に笑みを泛かべて記者の手を固く握る。記者が、私は機縁によって溥儀執政の北京蒙塵のときには北京の日本公使館にいてことの詳細を知っている、また満洲事変の際には奉天にいて報道の第一線に働いたので溥儀執政の就任式には参列し前後三回親しく溥儀氏に拝謁する機会を得た、と語ると、そうですか、それえはあなたもわが党ですネと喜びに興奮しつつも頗る打解けて語る。
記者 溥儀執政は実に理想的の皇帝ですネ
ジョンストン氏 全くその人格識見、皇帝としての威厳と資格が完全に備わっている。それにつけても今の国務総理鄭孝胥が終始一貫忠誠をもって仕えられていることと、鄭氏とともに常に帝王学を進講した陳宝●氏の功績は絶讚せざるを得ない。
記者 あなたの教育顧問生活は?
ジョンストン氏 一九一九年から一九二五年までです、その勉強振りと人格には打たれました。
そこで記者は『これで満洲国の国基が定まったわけですネ』というとジョンストン氏は『その通りだ』と肯定し、満洲国が帝政になれば国基は定まり、そして日本やイギリスに似た国体になるわけで今までリットン報告や国際連盟に遠慮していた諸国も満洲国承認ということになって満洲国、延いて極東問題の安定となり、世界の政治的紛争が除かれるのだという意味をはっきり印象づける。
記者 溥儀執政の印象は?
ジョンストン氏 皇帝の徳と叡智兼備の理想的皇帝である、英語など一生懸命勉強された、今度は日本語を一生懸命に学んでおられることと思う、英語の筆跡などもこの通り立派だ。(と溥儀執政よりジョンストン氏に自署して贈られた写真を数葉持出してその筆跡を称える。)
私はヘンリー・プー・イーという西洋人の呼び方は改めたいと思う、溥儀執政は漢字読みのときはプー・イー、英語のときはヘンリーとのみ書かれ、ヘンリー・プー・イーと書かれたことはない、新聞にこのことを注意するつもりだが、この三月に出すことになった溥儀執政と満洲国に関する私の著書にはこの点を明かにしておいた。
記者 馮玉祥の圧迫を避けるため溥儀執政が日本公使館に避難された時記者は恰度日本公使館に行っていたのでその詳細を知っている。
というとジョンストン氏はあれにはとても面白い秘史があると膝をのり出し、秘史を語る。
忘れもしない一九二三年十一月の末だった。その月の五日馮玉祥がクーデターをやり、溥儀執政が避難されていた北京の醇王府までも馮の軍隊に取りかこまれ、溥儀執政は監禁同様でわれわれの出入も厳禁されたが、後張作霖が北京に入ってその監禁を解き、再び溥儀執政に会うことが出来た。私はある筋から秘かに張作霖が北京を撤退すると耳にしたのでお側の陳宝●、鄭孝胥氏らと語らい張作霖引揚げ前に安全地帯の公使館区域に逃げ込むことに決めた。それは恰度あの蒙塵という字そのままを思わせる薄気味悪い風と黄塵万丈の昼ごろだった。
二台の自動車をつらね前の自動車には溥儀執政と私とが乗り、後の自動車には陳宝●氏が乗られて醇王府を脱出し、大通りは軍隊の監視が厳重なので小路小路を縫ってやっと崇文門側の入口から公使館区域に逃げこむことに成功し、すぐかねて知合いのドイツ病院に入り溥儀執政をその病室に入れた上、日本公使館に行き芳沢公使に会おうとしたが、不在で会えず、そこで当時首席公使であったオランダ公使オーデンヂック氏にあって公使館区域入りを告げ、さらにイギリス公使館に行きイギリス公使に会って溥儀執政は日本公使館におられることが最もよいと説きつけその承認を得て日本公使館に芳沢公使を訪うと公使は暫らく考えた上、よろしいすぐ返事する、といわれたのでドイツ病院に行くと溥儀執政は後から来た鄭孝胥氏がおつれしてすでに日本守備隊内に逃げ込まれた後であった。数ヶ月公使館内におられた時自分はイギリス公使館から毎日行ったが、今でも芳沢公使や竹本守備隊長の親切は身にしみ込んで忘れられない。
と話しは尽きない。そこへ執政の義弟の鄭さんが来て記者の溥儀執政が帝位に即かれるお喜びを申し上げたに対して感謝された。まだ二十四歳の青年紳士である。日本の新聞は朝日新聞だけを読んでいるとか。満洲国は長足の発展を告げ、まるで見違えるようになったであろう、いよいよホーム・シックになったとか、溥儀執政や鄭孝胥氏や東京士官学校在学中の兄弟の話で話は尽きないが、もはや会見三時間余、午後六時になったので再会を約して辞去した。
別れに臨み鄭さんは夫人ならびに赤ちゃんとともに来る七月ごろロンドン発、アメリカ経由日本船で東京にゆき兄弟に面会の後満洲国に帰りお祖父さんの鄭孝胥氏に久振りで会うことに決めた、満洲国に帰れば日満親善のため日本語の勉強をするつもりだ。
と語ったがジョンストン氏も口を添え『多分私もいっしょに満洲国に行くことにしたい』と記者に語った。
朝日新聞だけでなく報知新聞もレジナルドジョンストンと禁苑の黎明を紹介していた。
満洲帝国の独立は日本の所業に非ず(報知新聞 1934.3.13)
ジョンストン氏の新著
ロンドン十一日発連合=満洲国新帝がその昔清朝の皇位より逐われて紫禁城に居られた時代、家庭教師として近侍し前後五ヶ年間にわたり御教育の任に当ったサー・レヂナルド・ジョンストン氏は目下ロンドンにあって新帝の登極を慶賀し奉って居るが、この喜びを永久に記念するために『禁苑の黎明』と題する著書を上梓しいよいよ十二日出版されることとなった。
右の著書中には光緒皇太后、新帝の御性格より袁世凱その他の人物及び北京城内における多くの劇的事件、秘められた陰謀がことごとくジョンストン氏の見聞、体験に基づいて如実に描き出されているが、特に氏は満洲国の独立運動が日本の発議に成るものでなく満洲人自身の発意によるものであることを強調し左の如く述べて居る。
満洲国の独立運動は着々奏功してついに新帝の登極を見るに至ったが、右運動は決して日本の創意に成るものでなく少くとも一九二三年張作霖氏が満洲に復辟を企てた時以来の支那人及び満洲人の創意に成るものである。余は張作霖氏自身の口から聞いたのであるが、一九一二年の宣統帝の退位の際は満洲人はこれを拒否しようと思えば拒否し得たのであり、そのまま帝位を満洲に移し得たのだとの事である。
1945年9月2日以前の朝日新聞記事の完全版は満州事変や大東亜戦争ひいては大日本帝国(帝国憲法下における我が日本国)や当時の朝日新聞や国民世論に関する貴重な第一次史料である。朝日新聞社が本当に購読者ひいては日本国民に我が国の過去を直視させ反省させたいならば、現在の朝日新聞紙面に1945年9月2日以前の朝日新聞記事の完全版を時系列順に掲載すればよい。
朝日新聞社幹部が購読者に敗戦前の売春や公娼の実態を知らせたいのであれば、1945年9月2日以前の朝日新聞記事の完全版を調査して売春や公娼に関する朝日新聞記事の完全版を報道すればよいのである。それが歴史学の王道である。もっとも朝日新聞社が歴史学の王道を歩けば倒産するが。
将を射んと欲すればまず馬を射よ。日韓国交断絶を希求する運動に従事する者は、たとえば朝日新聞販売店のアルバイトとなって運動資金を稼ぎつつ朝日新聞定期購読者宅に朝日が明かす中国の嘘の宣伝広告を届けるなどして、韓国に媚び諂う朝日新聞社の倒産に全力を挙げるべきであると思う方は、ブロガーへ執筆意欲を与える一日一押人気ブログランキングをクリック願います。
<関連ページ>
・韓民族こそ歴史の加害者である!
・河野洋平の傭兵日本共産党研究-絶対に誤りを認めない政党
・間違いだらけの新聞報道―限りなき虚報のさまざま 南京大虐殺事件・万人坑問題
・検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す
・崩壊 朝日新聞

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