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「朴正煕、血書まで書いて日本学校に入学したのは一種の流行」(中央日報/中央日報日本語版2012年04月04日15時23分)
イ・ジョンシク米ペンシルベニア大名誉教授兼慶煕大教授(81)が米アマゾンドットコム(amazon.com)から『朴正煕(パク・ジョンヒ)評伝』(英語名Park Chunghee)を出した。 朴正煕元大統領(1917-79)が生まれた20世紀初めから1961年の5・16軍事クーデター発生までの現代史を「人間朴正煕」を中心に再照明した。
イ教授は著書『韓国共産主義運動史』で、すでに70年代に世界の学界に名前が知られた。 周囲の勧めで4年前からこの本を準備したという。 韓国・中国・日本に残っている朴元大統領関連場所も踏査した。1週間後には電子ブックも出る予定だ。
--総選挙・大統領選挙を控えた微妙な時期に本が出てきた。
「私はそういうことを全く考えていなかった。 数年間にわたる作業になり、ようやく編集が終わった。 私は朴元大統領の世話になったこともない。 1950年代から米国に居住し、むしろ維新に反対した。 朴大統領批判で有名な雑誌『思想界』の米国通信員も務めた。 維新が始まった72年から9年間は韓国を訪問したこともなかった」
--どんな点に力を入れたのか。
「彼の父の朴成彬(パク・ソンビン)の時代から5・16クーデターまでの韓国と周辺国の歴史を振り返りながら、どんな状況またはイベントが人間・朴正煕にどんな影響を与えたのかという点に注目した」
--著書の副題の「From Poverty to Power(貧困から権力に)」はどういう意味か。
「貧困が権力を追求させたということだが、朴正煕は貧困が自分の師だったと語った。 山頂にあった彼の生家に行ってみると、その言葉を直感できる。 父親の朴成彬は両班の家の長男で、科挙を準備している途中、東学に加入して死刑にあうところだった。 その件で家門から追い出され、妻の家の墓守に転落した。 貧しくなるしかなかった。 朴正煕は頭がよく、大邱(テグ)師範学校に入学するが、食事代を出せず、毎年40日ほど欠席した。 小学校でトップだった学生が、大邱師範学校では70人のうち69位で卒業することになった背景だ。 こうした貧困の記憶が彼の将来を左右した」
--大邱師範学校を卒業した後、普通学校(小学校)の教師になり、比較的安定した生活を送ることができたが、なぜ満州軍軍官学校と日本陸軍士官学校に通ったのか。
「幼い頃の夢が将校になることだった。 学生時代に読んだナポレオンと李舜臣(イ・スンシン)の伝記も影響を及ぼした。 また大邱師範学校の同窓生は次々と日本へ留学したが、自分は貧しかったためそうできなかった。 軍官学校に行けば将校になり、高等教育も受けられて、一石二鳥と考えたのかもしれない」
--民族を裏切るという考えはなかったのか。
「満州軍軍官学校に入学した年が1940年。 当時の日本軍は破竹の勢いで中国を攻めた。 日本の東洋制覇を疑う人がほとんどいない状況だった。 日本の秘密文書を見ると、日本に非協調的だった韓国人の大半が協調的に変わったと書かれている時期だ。 23歳の朴正煕もこうした雰囲気にのまれるしかなかった」
--入学願書とともに血書まで書いたが。
「1939年、40年当時、日本軍に入隊するための血書提出は一種の流行だった。 血書を書いた韓国の青年が39年の初年に45人、翌年40年には168人だった。 彼の軍官学校入学は血書のためではなかった。 彼は日本を敵対視しなかった。 考えてみてほしい。彼の父親が東学にかかわり、墓守として延命する状況で、朝鮮王朝が続いたとすれば、朴正煕はどんな教育を受けただろうか。 日本は彼に教育を受ける機会、将校になる機会を与えた」
--朴元大統領をかなり擁護している。
「そう聞こえるかもしれない。 しかし当時の状況を考えて青年・朴正煕の心情と行動を理解してみようということだ。 それが正しいかどうかを判断するのは読者の役割だ。 私も日帝時代を生きてきた一人として、当時の人物に対する理解が先立つのは事実だ」
--南朝鮮労働党(南労党)として活動した経歴は。
「南労党に加入したのは、彼が幼い頃から頼ってきた3歳上の兄が光復(解放)直後、米軍治下の警察の銃で死亡した後だった。 当時、韓国人の大半は米軍政に失望して反対した。 こうした状況で兄の友人だったイ・ジェボク牧師が南労党軍事責任者で朴正煕大尉を後押しした。 米軍政下で南労党は不法団体ではなく合法団体だった」
--61年のクーデターはどう評価するか。
「私は当時、来るべきことが来たという心情だった。 李承晩(イ・スンマン)博士はあまりにも老衰し、周囲の人物に左右され、4・19革命後に政権を握った民主党の指導者は早くに死去したり、指導力を発揮することができなかった。 社会は非常に混乱した。 張俊河(チャン・ジュンハ)氏と金俊ヨプ(キム・ジュンヨプ)教授が主導した雑誌『思想界』が5・16クーデターを支持したのにも、こうした背景があった」
◇イ・ジョンシク=1931年平安南道安州(ピョンアンナムド・アンジュ)生まれ。 韓国独立運動史と共産主義運動史の研究の基礎を築いた。 33年に満州に移住して成長期を過ごし、48年に北朝鮮に帰還したが、1・4後退当時に南下した。 米軍将校の支援で米国に留学し、UCバークレー大学院で‘運命的恩師’スカラピーノ教授に会った。 『韓国の民族主義運動史』『韓国共産主義運動史』とともに、李承晩・徐載弼(ソ・ジェピル)・呂運亨(ヨ・ウンヒョン)ら主要現代史人物の評伝を出した。
1939年から40年当時、朝鮮半島では、日本軍に入隊するための血書提出が一種の流行となり、朴正煕が日本を敵対視しなかったのであれば、韓国マスコミが喧伝する慰安婦強制連行説は事実無根である。それは絶対に有り得ない。
しかし韓国マスコミは慰安婦強制連行を既成事実化しようとこれを喧伝し続けるのである。彼らの脳内歴史認識では、日本軍が朝鮮の婦女子を拉致誘拐し性奴隷として戦場に連行するという凶悪犯罪を実行していた真最中に、朝鮮人の青年が日本軍に入隊するための血書を提出したり、朴正煕が日本を敵対視せずに日本の陸軍士官学校に入学したらしい。
所長が思うに、我が日本国の政治家は、次のように朴槿惠を叱責し続け、国内外の反日勢力に内紛を起こすこと以外に、彼らを打ち破る戦術はないだろう。
「このまま朝日新聞社が捏造した慰安婦強制連行説が既成事実となったら、貴女の父(朴正煕)は、第二次世界大戦中には、日本軍が朝鮮の少女を拉致し誘拐し性的奴隷として酷使していたことを黙過して日本陸軍士官学校に入り、韓国大統領として日韓基本条約締結時には、日本軍の蛮行を敢えて不問に付したことになる。
それらこそ最悪の親日(売国)行為である。貴女の父は最悪の親日行為を犯したというのか!?貴女の父は、朝鮮の少女を拉致し誘拐し性的奴隷として酷使していた日本軍に対して、何の抵抗も示さず、何の叛乱も起こすことなく、ぬけぬけと日本陸軍の士官学校を卒業した臆病で惰弱で卑怯で卑屈な卑劣漢だったというのか!?貴女は自分の父親の名誉を汚すのか!?」
そうすれば朴槿惠は、韓国の反日世論に対する「忠」と、自分の親に対する「孝」との間で苦悩煩悶し、ようやく慰安婦強制連行説の荒唐無稽さに気付いて、これを捏造した朝日新聞社に「恨」を抱くようになるかもしれない。
Park Chung-Hee: From Poverty to Power
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ウクライナの件、ほれ、やっぱり、ロシアはソビエト時代と全然変っておまへんやろ。支那・朝鮮だけでなく、それ以上にロシアも警戒してな。
箱庭に閉じ込められているのが、わからんのか。
狭いところで、WAおーん。
朝鮮名は朝鮮読みすべし!