「政府としては、当時の状況については様々な見方があり、ご指摘の東京大空襲は、当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、国際法の根底にある基本思想に一たる人道主義に合致しないものであったと考える。また、本件抗議に関する認識のような歴史的な事象に関する評価については、一般的に、専門家等により議論されるべきものと考えていることから、本件抗議に関する認識については、お答えを差し控えたい。」
しょほしょぼというブログの管理人は「東京大空襲1 そもそも違法だったのか?」という記事で所長の記事「空襲と国際法-東京大空襲は1907年ハーグ陸戦法規第25条違反」を引用しながら、次のようにまとめている。
ハーグ陸戦法規25条というのは、条約付属書のことだと思います。
ハーグ陸戦法規25条 防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ如何ナル手段二依ルモ之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス
但し、条約自体の1条は、
1条[陸軍に対する訓令]
締約国ハ、其ノ陸軍軍隊ニ対シ、本条約ニ附属スル陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則ニ適合スル訓令ヲ発スヘシ。
となっています。
条約の署名が1907年(明治40年)、効力発生が1910年(明治43年)、日本での公布が1912年(明治45年)1月で発効が2月のようですから、当時は航空機による攻撃は想定していないと思われます。
その後の改定などがあったかどうかは確認が取れませんでした。少なくとも拙ブログが持っている「解説 条約集」(三省堂)には、その旨の記載はありません。
従って、日本政府(内閣)として、「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、国際法の根底にある基本思想に一たる人道主義に合致しないものであったと考える」というのは、妥当なところだと思うというのが検索した範囲での結論です。
所長の記事「空襲と国際法-東京大空襲は1907年ハーグ陸戦法規第25条違反」を引用する者は、空襲と国際法(田岡良一著)を探し出して熟読すべきである。そうすれば「当時は航空機による攻撃は想定していないと思われます」は妄想であることに気付くはずである。
戦史法学徒は「字句に拘る者は法文の表皮を知るのみ(真髄を知ることはできない)」という法諺を肝に銘じなければならないと思う方は、はじめにブロガーへ執筆意欲を与える一日一押人気ブログランキングをクリック願います。
所長の手元にある国際法辞典(筒井若水編/有斐閣/1998年3月30日初版発行)327ページには次のような解説文が記載されている。
無差別爆撃
軍事目標とそれ以外の文民や民用物とを区別することなしに行う空襲。国際法上一般に違法なものとして禁止される。
軍事目標に対する爆撃は適法とされ、その際故意によらずに文民及びその財産に損害を与えることも適法とされるが、軍事目標以外に必ず破壊力が及ぶ爆撃方法、軍事目標が明らかでない際の一般的方法による爆撃は禁じられる。
これは少なくとも無防守地域に関する限り、陸海軍の砲撃についても同様と解されている(無差別砲撃の禁止)。
1923年の空戦に関する規則案24条は、軍事目標の爆撃も一般人民に対する重大な損害を伴うときは避止しなければならないとしたが、慣行との乖離が甚だしく、厳格すぎるものとして、一般に受け入れられていない。⇒軍事目標主義
[文献]田岡良一『空襲と国際法』(巌松堂書店、1937)
そこで空襲と国際法(田岡良一著/巌松堂書店/1937年6月20日初版発行)の第一章「空襲の歴史及び空襲に関する国際法の発達史」の要約を以下に再掲載する。
世界各国は航空機(aircraft、人を載せて空中に浮揚する一切の機械の総称)の出現を見るや否や、これを戦争に投入し、戦場における「制高点の人工的創造」の実現を求めて、航空機の開発競争にしのぎを削ってきた。
フランスのモンゴルフィエ兄弟およびシャルル教授による軽気球の発明は、1783年に完成した。フランス政府は直ちにこの発明をフランスが全欧州を敵に廻したフランス革命戦役に投入し、フランス軍は砲弾型繋留気球を敵情偵察および味方各部隊間の信号伝達に利用し、大いに戦果を上げた。
世界戦史上はじめて空中爆撃を計画した国家はロシアである。1812年ナポレオンのロシア侵入の際、ロシア皇帝はレッピヒというドイツ人の献策を容れ、飛行船を用いてフランス軍の頭上に爆弾を投下する計画を立てた。この飛行船は巨大な羽根を持つ気球で、人力によって駆動される予定であったが、完成機が重過ぎて浮揚できず、結局この計画は実行されずに終わった。
その後、1849年のイタリア・オーストリア戦争の際、オーストリア軍が時限爆弾を吊り下げた小型気球二百個を作り、風に乗せてこれらをイタリア軍の頭上に向かって放ったが、気象観測が不十分であった為に、この気球は目的地に到達せず、却ってその多くが不幸にもオーストリア軍の頭上で爆発してしまったのである。
19世紀中の戦争においては、航空機による爆撃は、以上の二つの失敗例を除いて試みられた事はなく、普仏戦争終了後の1874年ベルギーのブリュッセルに欧州十数ヶ国の代表が集い、陸戦法法典編纂会議が開かれた時には、航空機による空爆は問題とならなかった。
しかしこれから25年後の1899年、ロシア皇帝ニコラス二世の招請により全欧州諸国および日本、支那、タイ、ペルシャ、トルコ、アメリカ、メキシコの計二十六ヶ国の代表がオランダのハーグに集い、第一回ハーグ平和会議が開催された時には、ダムダム弾と毒ガスの使用および空爆の実行を禁止する宣言が可決された。
なぜならブリュッセル会議の後、欧州では普仏戦争に惨敗したフランスを始め各国が航空機の研究開発に力を注ぎ、気球の技術は飛行船の建造技術に発展し、イギリスでは1848年以来、蒸気機関を使用した飛行機の模型が製作され、1896年アメリカのラングレー教授がこの飛行機模型の飛行実験に成功し、99年にはドイツのツェッペリンが硬式(全金属)飛行船の建造を完成させつつあり、実戦における空爆の成功は、もはや時間の問題となっていたからである。
第一回ハーグ平和会議が可決した空爆禁止宣言は、「気球又は是に類する新方法によって、投射物及び爆発物を投下する事の禁止」を定めたもので、ロシアによって提案された。ロシアは独仏両国における飛行船の研究に刺激され、1886年フランスより飛行船の購入を試み、95年にはオーストリア人シュワルツに飛行船を建造させたが、いずれも失敗に終わり、1899年のロシアは、飛行船もこれを製作する技術も保有していなかった。
だから独墺伊三国同盟(1882年成立)と露仏同盟(1891年成立)の対立が戦争に発展する場合には、ドイツ軍はロシアに対して一方的に空爆を浴びせる可能性があり、ロシアはこれを恐れて平和会議を招集し、二大同盟間の軍拡競争の緩和を図ると共に、
「害敵手段は現存するものだけで有り余っている。これ以上に新手段を加える必要なし。」
と主張して、空爆の永久禁止を提案したのである。
ロシアの提案に対して、ドイツとフランスに挟まれた回廊国家であるが故に独仏戦争に巻き込まれる危機に直面するオランダが率先して賛成し、空爆が及ぼすべき惨害を力説し、殊に毒ガス弾投下の惨害を強調した。他国の代表も、この種の爆撃が正確に目標を狙い得ない技術水準に止まっており、戦闘員のみならず無辜の民にも危害を与える恐れがあることを指摘して、ロシア案に賛同した。
しかしアメリカは、将来航空手段の進歩が目標に対する正確な爆撃を可能にするか否かの判断は、現段階では困難であることを理由に挙げて、空爆禁止宣言の効力を5年間に限ることを主張、イギリス、フランスがこれを支持した。航空先進国であった米英仏は、近い将来に航空機が自国を防衛する有力な戦闘手段になることを予想して、空爆の永久禁止に反対したのであった。
かくして第一回ハーグ平和会議は5年の期限を付してこの宣言を全会一致で採択し(但しイギリスは宣言の表決に賛成した後に宣言の文書への署名を拒否)、イギリスとトルコを除く会議参加国が空爆禁止宣言を批准した。この宣言の失効から2年後の1907年に再びロシア皇帝によって第二回ハーグ平和会議が召集されたのであるが、驚くべきことに、この会議では、ロシアとイギリスがそれぞれ何の臆面もなく立場を百八十度「転向」したのである。
四十四ヶ国の代表が参加した第二回ハーグ平和会議では、オランダと同じ回廊国家であるベルギーの代表が先頭に立って、1899年の空爆禁止宣言に再び5年間の期限を付けてこれを採択することを提案し、若干の小国代表と共にイギリスおよびオーストリアの代表がベルギー案に賛成した。
これに対して、フランス代表にして国際法学者のルノーが反対論を唱え、
「従来の戦争法上、交戦国の軍隊が砲撃する事を禁じられた無防守の一般民家は、空中よりこれを爆撃することも禁じられるべきであるが、砲撃する事が許された敵の軍隊、兵営、武器貯蔵庫は、空中より爆撃する事をも認められるべきである。要するに問題は目標の如何にあるのであって、これを砲爆撃する方法の如何にあるのではない。
然るに陸戦条規第25条および第27条は、防守せざる都市、民家を砲爆撃する事を禁じ、また防守せる都市の砲爆撃に際しても、学校寺院を出来る限り避けるべしと定めて居る。これらの規定によって空爆禁止宣言の達せんとする人道的目的は既に十分に達せられて居る。」
と主張した。
当時のフランスは、普仏戦争の惨敗以来、この屈辱を晴らすべく、全ての科学的発明を軍備に応用し国防力を充実させる努力を重ねて来た甲斐あって、世界最高水準の性能を備える飛行船と飛行機を保有する航空先進国となっており、航空力においては他の何れの国をも凌駕しており、空爆禁止宣言を必要としていなかったのである。
ロシア代表もベルギー案に反対し、イタリア代表と結託して、問題を1899年ハーグ陸戦法規第25条「防守せざる都市、村落、住宅又は建物は、これを攻撃又は砲爆撃する事を得ず」の修正に移し、同条項に修正を加えることによって空爆禁止宣言を葬り去ろうと画策した。
露伊両国が提出した修正案の内容は、
「防守せざる都市、村落、住宅又は建物は、大砲をもって、又は気球その他これに類する新手段を用い投射物及び爆発物を投下する事により、攻撃又は砲爆撃すべからず。又右の投射物又は爆発物を投下するに当たり、陸戦及び海軍の砲撃に関する従来の制限は、これがこの新戦闘手段に適応する限り、遵守せざるべからず。」
というものであった。これに対してフランス代表は、第25条の原形を破壊せずに露伊両国の修正案と同一の目的を達する方法として、「大砲をもって、又は気球その他これに類する新手段を用い投射物及び爆発物を投下する事により」を「如何なる手段に依るも」という簡潔な一句に置き換えて、これを第25条に挿入することを提案した。
このフランス案が他の諸国の賛同を得て、1907年ハーグ陸戦法規第25条「防守せざる都市、村落、住宅又は建物は、如何なる手段に依るも、之を攻撃又は砲爆撃することを得ず」となったのである。第25条とは空爆禁止宣言を骨抜きにして葬り去らんとした露仏伊の共同謀議の産物なのであった。
ロシアの空爆に対する態度と立場を豹変させた要因は、1904~05年の日露戦争である。東洋の小国日本に予想外の敗北を喫したロシアは、この屈辱を晴らすべく、陸軍の改組、全滅した海軍の復興、そして航空力の充実に力を注ぎ、日露戦争終了の翌年には航空力学研究所を設立し、飛行機の研究に着手しており、1907年のロシアは未だ飛行船の保有に到達していなかったとはいえ、基本的にはドイツに対するフランスと同様の立場にあったのである。
しかしながらベルギーその他の小国は、第25条の修正案には同意すると共に、空爆禁止宣言の復活をも主張して譲らなかった。スイス代表の指摘したごとく、第25条の修正案は、1899年の陸戦法規第25条の意味を明確にしただけで、実質的には何ら改良を加えられたものではなく、1899年の陸戦法規の傍らに空爆禁止宣言を設定する必要があったならば、1907年の修正によっても、その必要性は減少しないはずだったからである。
この時、イギリス代表は、この宣言の有効期限を5年間から「第三回ハーグ会議の終了まで」と改めるように提議した。イギリス案によれば、この宣言の寿命は少なくとも8年間となり、第三回会議の開催が遅延すればするほど延長されることになるのである。
1907年のイギリスが保有する航空機は、弱い逆風に煽られて進路を維持できなくなる劣悪な小型飛行船一機のみで、1899年から1907年までの8年間にイギリスは、独仏との航空機開発競争に敗れ、航空後進国に転落しており、当時のイギリスの朝野が恐怖していた悪夢とは、ドーバー海峡という地理戦力が飛行船と飛行機の実戦参加によって著しく弱体化させられ、ヨーロッパの大陸側勢力のイングランド上陸を許してしまうことであった。
かくして第25条の修正案と空爆禁止宣言の復活案は共に本会議において表決に付され、前者は全会一致をもって承認されたが、後者に対しては、フランス、ロシア、そして飛行船大国であったドイツその他若干国が反対して署名を拒否し、イギリス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、スイスなど十五ヶ国が、この宣言に署名し批准したのであった。
1899年と1907年に開催されたハーグ平和会議は、国際法史において従来の戦争慣習法を成文化し戦争法規条約を採択した有意義な会議となったが、その名称とは裏腹に、帝政ロシアの、軍事戦略を補助する狡猾な外交政略の一環であったことも否めない。特にロシアが第二回平和会議を開催した裏面目的の一つは、対日報復戦の準備であった、と言っても言い過ぎではないであろう。
かくして第一回ハーグ平和会議において会議参加国の殆ど全部の署名および批准を得た空爆禁止宣言は、第二回会議では参加国の約三分の一の批准しか得られず、当時の有力な陸軍国はいずれもこれに批准しなかった。
しかもこの宣言は総加入条項(交戦国の総てが条約批准国である戦争においてのみ条約は適用されると規定する条項)を付加された為に、将来の戦争において参戦国中に一ヶ国でも未批准国がある場合には、この戦争全体に適用されないことになり、従って空爆禁止宣言は、実際上ほとんど実効性を有さない空文に転落してしまい、果たして第二回ハーグ会議以後に勃発したイタリア・トルコ戦争(1911~1912)、バルカン戦争(1912~1913)、第一次欧州大戦(1914~1918)には適用されなかったのである。
大戦では、開戦初年度から主に西部戦線において飛行船および飛行機による空爆が行われ、ブリュッセル、パリ、ベニス、ロンドン、デュッセンドルフなどヨーロッパの有名な諸都市が爆撃の対象となった。大戦中の敵軍の空襲によってドイツ側に生じた被害の総計は死者720人、負傷者1750人、同じく英仏両国に生じた被害の総計は死者1815人、負傷者4217名であった。
これら空爆の犠牲者数は、約3400万人もの人命が失われた第一次欧州大戦にあっては微々たるものと言える。だが大戦の進行に伴い、純航空機用爆弾が開発され、爆弾の破壊力は著しく増大し、大戦の末期には750キロ、1トン級の大型爆弾が実戦に投入されており、さらに1918年8月にはドイツにおいてエレクトロン弾なる特殊な焼夷弾が大量生産された。
これは、地上に墜落すると同時に二千度から三千度の高熱を生じて発火し、その周囲にある全ての可燃物に引火して、水では消すことのできない化学火災を発生させる恐るべき効果を持つ焼夷弾であった。しかしドイツ軍総司令部は、
「この爆弾によって期待され得る威力ある破壊は、もはや戦争の進行には如何なる影響をも及ぼさざる事は明らかであり、単に破壊の為の破壊の遂行を許す事は出来ない。」
と判断、ドイツ宰相ヘルトリングの要請を受諾し、この焼夷弾の使用を中止したのである。第一次欧州大戦の最後の年にドイツは敵国の首都を焼き尽くす新兵器を入手していたにもかかわらず、ドイツ政府軍部首脳の潔い態度がロンドン及びパリを破滅から救出したのであった。
これに対し連合軍は、1919年の春を期してドイツの諸都市に対し、前年の6倍の規模に達する爆撃を行う準備を進めており、もし1918年11月に休戦協定が成立していなければ、空爆の犠牲者数は激増していたものと推定される。
戦勝に貢献しない破壊行為すなわち単なる破壊のための破壊を禁止する戦時法規の厳密なる遵守と戦争の惨禍の極少化には、戦争指導者の高潔な精神が必要不可欠なのである。
爆撃の国際法的研究の権威たるロイスは、第一次欧州大戦における空襲の実態を次のように総括した。
「大戦を通じて、就中進歩せる航空機によって遠距離爆撃が実行容易になった大戦最後の年に、爆撃行為を専ら作戦行動の近接地帯に限る試みはなされなかった。ドイツ空軍の襲撃も、遠距離爆撃を使命として組織せられたイギリス独立空軍の仕事も、フランス爆撃隊の行動も、みな爆撃を陸戦の戦闘地帯または前進地帯に限局せざる事において一致する。
軍事的性質を有する目標はその存在する場所の如何を問わずこれを爆撃する権利、として定義せられる軍事目標主義が列国によって公に空襲の基礎として採用せられた。ただし空爆の機械的不完全性が実際上無差別爆撃の結果を生じた事は既に述べた如くである。作戦行動の近接地帯よりはるか彼方に位置する都市も軍事目標を含むという理由によって襲撃せられた。
又一方から言えば、政治的または心理的効果を挙げる目的をもってなされる一般的破壊(註、無差別砲爆撃)の権利は、戦争中何れの交戦国からも公に主張せられなかった。
もっとも空爆によって敵国民の内に精神的破壊を惹起する事は、爆撃隊の任務の一部分として認められたが、世界大戦中の空軍の技術的実力は、この目的を達するに十分なる破壊を行い得る点まで到達はして居なかった。従ってこの問題は未解決のままに残された。ただ次の一つの主義が大戦中一般に行われた事は言い得ると思う。
『軍事目標はその何処に存するかを問わず爆撃するを得、その在り場所の如何を顧慮するを要せず、また恐らくは非戦闘員の生命および私有財産に対する損害をも顧慮する事を要しない。』」
1922年12月ハーグにおいて、日英米仏伊蘭の六ヶ国代表から構成される法律家委員会が開催された。その目的は第一次欧州大戦の経験に基づき過去の戦争法を修正することであり、その産物が「空戦に関する規則」(未発効)である。
この時、委員会は英米両国政府から提出された二つの草案を討議の基礎としたが、いずれも空爆の一切の禁止を問題とせず、また爆撃目標を敵国の兵力に限らず、軍需品工場、交通運輸線のごとき私人の生命を伴う目標をも適法なる空爆目標とする厳格な軍事目標主義に基づく法案であり、将来戦における空爆の被害拡大を防止する方策としてイギリスが熱心に賛同した1907年の空爆禁止宣言に実効性を付加する方向には進まなかった。
なぜなら大戦に敗れたドイツは1919年のベルサイユ条約によって空軍、戦車、潜水艦の保有を禁止され、帝政ロシア軍を引き継がなかった共産ロシアは1920~21年の対ポーランド戦争に敗北するほど軍事的に弱体化しており、独露両国に対する軍事的優位を確保したイギリスにとってこの宣言は無用の長物となっていたからである。
列強国にとって1899年に誕生した空爆禁止宣言の価値とは、航空後進国が対立する航空先進国に追い付き追い越す時間を稼ぐ為の方便に過ぎなかったことは、もはや誰の目にも明らかであろう(要約終了)。
1899年ハーグ陸戦法規第25条は「その破壊が軍事上必要なる建物は如何なる手段を用いてもこれを破壊することを得べく、第25条はこの破壊を妨げない」と解釈され、慣習法上陸軍が持つ軍事目標砲撃の権利を廃止する趣旨を含まない。陸軍は防守せざる都市村落内の軍事目標を砲撃する権利を保有するのである。
この権利は、そのまま1907年ハーグ陸戦法規第25条に相続され、防守せざる都市の攻撃につき空軍を陸軍と同一の地位に置く「如何なる手段に依るも」の一句によって航空機にも適用されるのである。
従って第25条の解釈を理解しやすくする為に同条項に若干の補足説明を施せば、それは、
「防守せざる都市、村落、住宅又は建物は、(陸軍および空軍の)如何なる手段に依るも、之を(無差別に)攻撃又は砲爆撃(bombard)することを得ず。」
となろう。
「bombard」とは砲弾又はこれに類する投射物(弓箭、弾丸、手榴弾、爆弾のごとく、人の腕力、弦、バネの弾力、火薬の爆発力、重力などを利用して投射され殺傷破壊に用いられるもの)を用いて敵を攻撃することを意味し、日本語の砲撃と爆撃を包含する言葉である。だからこれを単に「砲撃」と邦訳することは誤訳であり、陸上からの砲撃は違法であるが、空中からの爆撃は合法であるとの誤解を生み出しかねない。
また第25条の中にある「防守」も誤解されやすい用語である。戦時国際法上、防守とは「占領の企図に対する抵抗」を意味し、
1、ある都市を占領する意図を持ってその目前に迫る軍隊の存在。
2、その都市内に在ってこの意図を妨げる軍隊の存在。
という両要素が揃って、防守は成立するのである。
だから1937年12月の南京攻防戦における南京は防守都市であり、南京に対する無差別の攻撃と砲爆撃は合法であったが、1945年の東京、広島、長崎は、たとえ防衛軍、軍事基地、軍需工場等を抱える所謂「軍都」であったとしても、1の要素を欠いていたのだから、防守せられたる都市とは成らず、いずれも防守せざる(無防守)都市であり、従ってこれらの都市に対するB-29の無差別爆撃および原爆投下は、明白に違法であり戦争犯罪であった。
我が国が自衛隊を国防軍に昇格させるためには、軍法会議の設置が必要不可欠である。そして軍法会議の運営には戦時国際法に精通する多数の法務将校が必要不可欠である。
多数の法務将校を養成する近道は、政府が「空襲と国際法」のほか戦時国際法講義(信夫淳平著/丸善/1941年)全四巻を廉価な文庫本として復刊することである。
そうすれば日本の無数のミリオタが喜んでそれらを購読し戦時国際法の知識を身に付け、共産中国および韓国やアメリカが宣伝する反日虚偽宣伝を撃砕し、彼らの中から諸外国に正々堂々と法戦を挑む優秀な法務将校が生まれてくるだろう。
現状では安倍晋三首相が目指す日本国防軍の創設は夢のまた夢である。
<関連ページ>
・戦争を論ずる―正戦のモラル・リアリティ
・日本国防軍を創設せよ
「頑迷固陋な数十年来の朝日新聞信者に、国防軍の再建を妨害する朝日の定期購読を止めさせてしまう大東亜戦争史を広めるために、おわりにブロガーへ執筆意欲を与える一日一押人気ブログランキングをクリック願います。
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