政治論略第二回－ルソーの民約論

　我が国の唯一無二の正統憲法たる大日本帝國憲法の起草に多大な影響を与えた外来の思想は、伊藤博文の座右の書であったアメリカ合衆国憲法の解釈書「ザ・フェデラリスト」（1787年）と、金子堅太郎によって邦訳されたエドマンド・バークの「フランス革命の省察」（1790年）であった。

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政治論略（金子堅太郎著／元老院／明治十四年（1881年）十一月初版発行）第二回

　是より先き、仏國に一種の政治論者起り旧来の法例を破壊し新に政府を創定するに非ざれば真正の開明に達することを得ずとの議を主張し、頻（シキリ）に人民を鼓舞煽動せし者あり。その巨魁とも称すべき者は一時欧米の人心を狂乱し殆んど宇内の革命を撹起せんとしたる「ルーソー」その人なり。

　ルーソーはスイスの人にして幼少より貧窶（ヒンク－貧しく、やつれる）に苦しみ、成長するに及んで益々轗軻（カンカ－車の行き悩む様、転じて事が思うようにならない様、人の不運）不幸に遭遇するを以て深く心胆を悩し、居常鬱々として楽しまざるのみならず生来世間の交際を嫌忌し、現時の社会を損倦し独座幽棲の間熟々（ツクヅク、ツラツラ）世事を観察し忽ち感悟する所ありて以為らく（オモエラク－思うことには）、そもそも現今の社会たるや萎靡衰頽殆んどその極に達してこれを改良するの機会は業に已に経過せり、故に今日艱苦を厭わず不幸を顧みず専ら時弊を矯正してこれを維持せんと欲するも到底これをして開明の域に進歩せしむること能わざるを以て、いやしくも進取の気象ある学士論者は断然現社会を破毀して旧制古典を一掃し、更に公平無私なる民約政治の主義に由り新に社会を組み立てるのほか良策なしと。

　その主義に依れば、往古人種の初めて社会を組織したる精神に基づき、貴賤貧富の差別なく、又君主独裁の圧政なく万民一致の共和政府を創立して國政を経緯し、一は人民天賦の権理を完全ならしめ、一は各自同等の権力を有せしむるに在り。

　ルーソーは雄弁に任せ以てこの説を主張し、又その旨趣を著述し民約論と名づけてこれを世間に頒布せり。その論旨文章は多く論理の矛盾あるにかかわらず、専ら人情の感触を目的とせしものなるが故に、その仏國人民が数十年来虐政の為に塗炭の中に陥り怨望の極度ついに政府を顛覆せんと欲して未だ依頼すべき有力者なきを歎ずるの際に乗じ、忽ちその思想を眩惑し、その心緒を狂乱し、遂にルーソーを以て人民の父母なり政治の泰斗なりと尊称し、その徒マラーの如きはパリ市街において数百の人民を集め、ルーソーの民約論を朗読し、その論理を註解し、満場の傍聴人は皆拍手喝采して、四面これが為に震動し、以て欧州一般の人心を揺るがすに至り、法律学校の教授もまた民約論を以て政治の標準なりと認め争いて生徒をしてこれを研究せしむるに迨（オヨ）べり。嗟呼前哲のいわゆる危民易與為乱とはそれこの謂呼。

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