人口から読む日本の歴史を読みたくなった方は、はじめにブロガーへ執筆意欲を与える一日一押人気ブログランキングをクリック願います。
人口成長の限界
自然環境の好転に支えられた稲作農耕化とそれに伴う国家形成の実現は、めざましい人口増加となって現れた。しかし八世紀を過ぎて成長率は落ち、十世紀以降は停滞的になって、人口の第二の循環は終息の局面に移ったようである。
人口成長の限界は何によってもたらされたのだろうか。次の四点について検討してみよう(中略)。
第二に考慮しなければならないのは気候悪化の影響である。ただしこの場合は冷害ではなく旱害が問題になる。十一・十二世紀の温暖化のピークの時代は、同時に乾燥化の時代でもあった。
前項の図2に示した湿潤指数は十二世紀後半から十四世紀前半にかけて異常に低く、この時代が冷涼(湿潤)の時代ではなかったことを如実に語っている。この指数は小鹿島果が編纂した日本災異志に収集された六〇〇年から一八七五年までの記録から作成したもので、霖雨(長雨)件数を旱魃および霖雨件数の合計で除して算出している。
土中の花粉分析や樹木の年輪に含まれる酸素18という、普通の酸素(原子量16)より重い同位元素の物理化学的分析からも、この世紀が著しい高温期であったことを示している。
したがって、十一世紀は高温であり、かつ降水量の多い、植物の生育にとっては最も好ましい環境の支配する時代であったということができる。国風文化の成立期が、温和な十世紀、高温湿潤の十一世紀であったことは無関係ではないだろう。
十二世紀における乾燥化の影響は度重なる旱害となって現れた。その極点が一一八一年(養和元)の日照りによる大飢饉であった。鴨長明は「方丈記」の中で、飢渇と疫病が猛威を振るう京の町なかに乞食があふれ、打ち捨てられた屍が累々と道を埋めるというこのときの悲惨な状況を描いている。
旱害の打撃は、その地理的位置から西日本を中心に大きかった。十世紀から十二世紀への人口増加が東日本では10%近い増加であったのに対して、西日本ではわずかに2%でしかなかったのはそのためであろう。
この世紀の末期に平家が倒れ、東国に源氏が政権をうち樹てることができたのも、このような自然史との脈絡において考える必要がある(人口から読む日本の歴史65~66ページ)。
結局のところ、平家滅亡の原因は、平家が京都を中心とする西日本に頻発した旱害と飢饉に対応できずに、兵站と人心とを喪失したということなのだろう。そしてこれは、いわゆる被差別部落の痕跡が関西に偏在していることと無関係ではないだろう。
日本列島の異常な温暖乾燥化が西日本に旱魃と飢饉を頻発させた十二世紀後半から十三世紀に、エタ非人の起源である濫僧非人(正式の得度を経ない私僧で、僧形の浮浪者。いわゆる乞食坊主のこと)が律令制度の崩壊後の賎民層を形成したからである。
人口から読む日本の歴史を読みたくなった方は、おわりにブロガーへ執筆意欲を与える一日一押人気ブログランキングをクリック願います。
↓↓↓

【関連する記事】
- 東條内閣が日米開戦を回避できなかった単純明快な理由
- マリアナ海戦の単純な敗因―戦史修正のお知らせ
- 隠されていなかった満洲の大豆―戦史修正のお知らせ
- 1934年12月のクリスマス景気-戦史修正のお知らせ
- 国際連盟極東阿片吸飲取締調査委員会の報告(国際連盟事務局調査局)
- 今日のマスコミと教科書が教えない「満洲事変時の満蒙独立運動」
- アメリカの禁酒法と満洲帝国のアヘン漸禁政策-戦史修正のお知らせ
- 創氏改名日本名強制説と慰安婦強制連行説が真っ赤な嘘である証拠史料-朴春琴代議士の..
- 空騒ぎの検事総長の定年延長問題
- 朴春琴代議士の大政翼賛会批判-戦史修正のお知らせ
- ソ連代表の白昼堂々たる虚偽演説を視聴した高柳賢三博士の第六回ヨセミテ会議回想-戦..
- 昭和十七年(1942)の勝機-戦史修正のお知らせ
- インパール作戦で戦死した日印軍将兵に捧ぐクレメント・アトリーの言葉
- また共同通信のミスリード!支那戦線の陸海軍に対する娼妓の送り込み方
- Kの国の法則の恐ろしさを証明した大日本帝国の不運と敗因-戦史修正のお知らせ
- 「間の抜けた政策」朝鮮米の増産と内地移入が招いた昭和大恐慌
- 今日の朝日の凶悪な反日種族性を示す戦前の朝日記事-朝鮮米の増収計画
- ガダルカナル攻防戦終了直後の「敵潜水艦に対する防禦強化に関する請願」
- 右翼流一億玉砕は教育勅語蹂躙
- 満洲共産党事件