しかし読者の中には、日本国憲法が無効であるとして、なぜ我が国は帝國憲法の復原(原状回復)を行わなければならないのか、何故ゼロから全く新しい自主憲法を制定してはいけないのか、という疑問を抱く方がいるかもしれない。
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日本国憲法が日本国の最高法規として無効であるなら、日本の最高法規の地位にある正統憲法は帝國憲法以外にない。従って帝國憲法の復原が法理の筋道なのだが、なかなか今ひとつピンと来ない方のために、日本国憲法の制定過程に一つの瑕疵もなく、日本国憲法の制定が帝國憲法に照らして合憲にして有効であり、日本国憲法が我が国の最高法規の地位にある紛うことなき正統憲法であると仮定してみよう。
次にこの日本国憲法の内容に不満を抱く政治勢力が、日本国憲法第96条に違反する憲法改正を強行し、改正憲法Aを施行したとしよう。
この改正憲法Aの施行は日本国憲法第96条違反であるから、改正憲法Aは当然無効である。これに疑問を抱く方はいないだろう。しかしここから日本国憲法の復原が行われずに、ゼロから全く新しい自主憲法Bが制定されることになったら、正統憲法であるはずの日本国憲法は違憲の改正憲法Aとともに失効してしまうことになる。
こんなことが罷り通るなら、あらゆる正統憲法は、この憲法の内容に不満を抱いて敢えて違憲の憲法改正を犯す政治勢力によって、次から次へアッサリと殺され、日本の立憲政治は全く機能しなくなる。
全く新しい自主憲法Bが超硬性(厳重な憲法改正要件を持ち極めて改正し難い)の正統憲法となったところで、それは全く無意味である。今度は自主憲法Bの内容に不満を抱く政治勢力が自主憲法Bに違反する憲法改正を強行し、改正憲法Cを施行したら、違憲の改正憲法Cは無効だが、またゼロから全く新しい自主憲法Dが制定されることになり、同時に自主憲法Bは失効することになる。
ここで日本国憲法の復原を拒否して自主憲法Bの制定を行った者および自主憲法Bを支持する者は、自主憲法Bの復原を主張することは出来ない。この自主憲法Bは前正統憲法たる日本国憲法の復原拒否の上に成り立つからである。
たとえ彼等が正統なる自主憲法Bの復原を主張したところで、「お前が言うな!!」という非難の大合唱を浴びて、全く説得力を持ち得ない。正統憲法の復原を拒否した者、復原拒否を肯定した者が、どうして正統憲法の復原を他人に快諾させることが出来るのか。
ここで我々が忘れてはいけない歴史上の有名人物が石原莞爾である。支那事変勃発以後、石原は参謀本部作戦部長として、関東軍参謀副長として、京都第十六師団長として、支那事変の不拡大早期和平と対米英開戦の不可を唱え続けたが、全く戦争拡大派を折伏できずに陸軍内で孤立し、遂に昭和十六年三月一日、陸軍内の統制秩序の回復を掲げる東條陸相によって予備役に編入されてしまった。
自己の信念を貫いて政府と軍部の不拡大方針を無視し満洲の広野に戦闘を拡大した張本人の石原莞爾が、支那事変を拡大する統制派革新幕僚に対して、どんなに戦争の不拡大を提唱しても、まるで説得力を持ち得ず、石原は自分が生み出した満州国を滅亡から救い出せなかった。
関東軍が軍事作戦を発動するための正しい法的な手続き、大日本帝國が軍事力を行使するための適法過程を無視して満州事変を惹起し拡大した石原の行動が、ギロチンブーメランとなって石原自身に跳ね返り、石原の優れた諸構想を斬殺してしまったのである。
日本国憲法無効・自主憲法制定論者は、帝国憲法に拠り違憲の日本国憲法を無効と主張しながら、その後に、自ら帝國憲法の規定する憲法改正の手続きを無視して、ゼロから全く新しい自主憲法を制定し、帝國憲法を廃止しようとするのだから、これは最悪の帝国憲法違反であり、革命(違憲の憲法改正あるいは違憲の憲法廃止あるいは違憲の新憲法制定を無効とせずに有効とすること)である。
立憲主義の敵である革命肯定論に支えられる全く新しい自主憲法とそれを支持する者は、革命に対して法理的に抵抗できない。さらなる革命を招くのみである。自主憲法は帝國憲法と同じ悲運を免れず、哀れな末路を辿るだろう。
結局のところ帝國憲法の復原を拒否する日本国憲法無効・自主憲法制定論は、占領、内乱、クーデターといった違法な武力(暴力)による憲法の改廃から、正統憲法を守り抜く法戦能力-正統憲法復原能力-を我が国から剥奪してしまうのである。
しかも我が国がゼロから全く新しい自主憲法を制定する場合、保守勢力は新自主憲法の内容のみならず、その制定の手続きを巡って革新(左翼)勢力と争わなければならない。このとき如何なる憲法制定の手続きが正当で適法であるか不当で違法であるか不明となるため、最悪の場合、日本は国際内戦に巻き込まれる可能性も否定できない。
将来の見通し-法理の筋を通し法の支配を貫く外なし(井上孚麿著現憲法無効論―憲法恢弘の法理312~314ページ)。
法の復原の道理が、実定法の世界において如法に行われて、有効僭称の偽法が亡びて、有効正統の法が、その固有の地位に復帰すれば、無難に事が治まり、それによって万事綺麗さっぱりと後腐れなく片付いてしまうのであるけれど、この真偽正閏の紛更が、法域の外まで持ち越されると、それがいつまで錯綜纏綿し、いつまでも尾を曳いて終期がないのである。
無法は無法を、無理は無理を呼ぶ。暴力は暴力を招き、血は血を呼ぶ。一の革命、一のクーデターは、他の革命、他のクーデターを招く。次々に連鎖反応を捲き起こし、永劫輪廻の無間地獄を脱却することは出来なくなる。
無政府的混乱と独裁専制との交替継起は、その必然の運命である。それのみではない、虎視眈々と併呑の爪牙を研いでいる列強の餌食となり続けるとも限らないのである。かうなっては、国家の統一も民族の独立も、国民の自由も、基本的人権も、生活の安定も、安寧秩序も、全くの夢と化し去る外はないのである。
それもつまりは、その当初において、一度復原の機会を逸したことにその原因があることを知らなければならない。一時の無自覚・偸安(とうあん、一時の安楽を求めること、一時しのぎ)又は怯惰が、永久の不幸の種子となるのである。
これに反して、たとひ一旦は無理無法に憲法の廃立が行われたとしても、過つては改むるに憚ることなく、これを不法不当であるとする認定が実際に力を得て、この不法不当なものを排除し、前に不法不当に排除された正統な旧法の原状恢復(復原)に成功するならば、容易に右のような流転輪廻の悪循環を断ち切って、劫罰の修羅場から脱却することが出来るのである。これは法理の当然の帰結であるし、従ってまた古今東西の歴史の明証する所でもある。
大革命以来、連綿不断に革命やクーデターを繰り返しつつ、不当の国勢不振に悩まされているフランスと、クロムウェルによる憲法変革を無効のものとして、旧法の復原を断行することによって、正統憲法の権威を恢弘し、これによって個人の自由と国家の統一とを両立させ、名実共に憲法政治の模範国となりつつイギリスとは、好個の対照をなすといってよい。
日本はそのどちらの道を選ぼうとするか(イギリスの憲法復原については、憲法研究238、248、252、311ページ参照)
哲学とは、世界や人間についての根本原理を追求する学問である。法の根本原理を追究し続けた井上孚麿は立派な哲学者である。
井上は、世界史から事後救済の法理の実践が国家の正統憲法復原力を高め、法の支配を強化することを発見し、歌人としてそれを「いくそたび かき濁しても 澄みかへる 水や御國の 姿なるらむ」と表現した(詳細はこちらの記事)。
この歌には、後世の日本の法学徒が正統憲法復原の道理を理解し実行し、せめて日本国内だけなりとも法の支配を確立してほしいとのの切なる希望が託されている。
・家庭の守護神として大人気!戦国武将 上杉謙信
「ものども、天晴れな勇者、井上孚麿に続け!今こそ違憲有効界の魑魅魍魎どもを薙ぎ払い、マッカーサー占領軍憲法体制を打ち倒せ!」
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