しかし昭和史研究所所長の中村粲は、尾崎秀実らゾルゲ機関の作為戦争謀略活動を白日の下に晒した大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義(三田村武夫著/自由選書/1987年初版発行)に気づかずに大東亜戦争への道(展転社/1990年初版発行)を公刊してしまった。
とくに汪兆銘工作が日本の執るべき唯一の道であることを強調した尾崎秀実の戦時論文-公論昭和14年11月号「汪精衛政権の基礎」(尾崎秀実著作集第2巻、1977年初版発行)を見落としたことは致命的なミスであり、「大東亜戦争への道」は読者を大東亜戦争の真相とは正反対の中村粲の的外れ防共史観に誘い込む迷路トラップになっている。
だからこの本には所々に悪質な虚報の詐術が仕込まれているのである。
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大東亜戦争への道第16章対支和平への努力「加重された和平条件」(461ページ)は次のように記述する。
蒋介石がブリュッセル会議にかけていた期待は結局裏切られることになり、他方、戦局も支那側にとって甚だしく不利に展開するに至った。蒋介石の時局は余りに楽観的すぎたのである。日支和平交渉も、かくては蒋の思惑通りに運ばなくなったのは当然である。十二月七日、広田外相はディルクセンに、十一月二日の日本側和平条件はその後の日本軍の軍事的成功の結果、拡大することにならうと述べ、ディルクセンもまた、日本軍が圧倒的に優勢な戦況からして和平条件が厳しくなることは避け難いと考へたのであった。
間もなく南京は陥落した。
12月2日に中華民国総統の蒋介石は、ドイツ駐支大使トラウトマンと会見、日本を勝者とみなさず、11月2日に日本政府がドイツ駐日大使ディルクセンからドイツ政府を通じて国民政府に提示した対支和平条件(11月ベルギーで行われたブリュッセル国際会議に期待をかけていた蒋は之を一旦拒絶)が変更されないことを確認した後、ドイツを仲介として日本と講和する用意がある旨を伝え、蒋介石はトラウトマンに次の支那側条件を提示した。
1、支那は講和交渉の一基礎として日本の要求を受諾す。
2、北支の領土保全権、行政権宗主権に変更を加うべからざること。
3、ドイツは当初より講和交渉の調停者として行動すべきこと。
4、支那が第三国との間に締結せられたる条約は、講和交渉により影響を受けざること。
中村粲は以上の事実を省略したのである。さらに同章「国民政府を対手とせず」(462ページ)の以下の記述には、もっと悪質な虚報の詐術がある。
斯くして一月十六日、我国はドイツ側に和平交渉の打切りを謝意と共に伝達し、トラウトマン工作は終了した。同時に政府は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず。真に提携するに足る新興支那政権に期待し、これと国交を調整して更正新支那の建設に協力せんとす」といふ近衛首相の声明(第一次)(註)を発出したのである。そしてこの年、戦火は徐州、広東、武漢三鎮など全支に拡大したのであった。
(註)この第一次近衛声明の原案作成者は上村伸一外務省東亜局第一課長であった。「対手とせず」の字句は意味が硬軟何れにも取れて曖昧なところが買はれたと云ふ(上村『日華事変』下)。
日支双方に誤断
トラウトマン和平工作失敗の責任は何れにあるのだろうか。トラウトマン和平の責任は何れにあるのだらうか。後に蒋介石の抗戦政策を見限って汪精衛の和平陣営に走った周仏海(蒋介石侍従室副主任兼中央宣伝部長)は、支那事変が泥沼に落ち入った原因は、日支双方にあるとし、日本の誤りは南京攻略ののち追撃をしなかったことで、もし日本軍が勝ちに乗じて追撃してゐたら中国が抗戦を維持できたかどうか疑問であると述べてゐる。他方、中国側の過ちは、どうにもならぬ情勢に追ひつめられながら、トラウトマン調停といふ機会を逸してしまったことであると指摘している(金雄白『同生共死』の実体)。蒋介石側近の分析として注目すべきものであらう。
ともかく、支那事変はかくして長期化への様相を深めて行った。
「七月七日蘆溝橋で日中両軍が衝突する事件が発生した。現地では停戦が一応成立したが、この際中国に一撃を加えて抗日運動を屈服させ、華北の資源・市場を獲得しようとの意図から近衛内閣は派兵を決定し、日本は中国に対する全面的な侵略戦争に突入した。・・・・・・ドイツは和平を斡旋したが、首都占領で勢いにのった近衛内閣は『国民政府を対手とせず』と声明し、みずから戦争収拾の道をとざした」(傍点筆者)これが高校歴史教科書の記述である(直木孝次郎『日本史(三訂版)』(平成元年一月実教出版発行)。
和平への道を閉ざしたのは、果たして日支いづれの側であつただらうか。
「対手とせず」の持つ曖昧さを打ち消すために、1938年1月18日、近衛内閣は補足声明として、
「爾後国民政府を対手とせずと云うのは、同政府の否認よりも強い意味をもつものである。国際法でいえば、国民政府を否認するためには新政権を承認すればその目的を達成するのであるが、正式承認できる新政権ができていないので、とくに国際法上新例を開いて国民政府を否認し、これを抹殺するのである」
と断言し、22日、第七十三回帝国議会衆院本会議においても、近衛文麿首相は、川崎克議員や島田俊雄議員に対して、
「蒋政権と国交調整についての交渉は一切やらない、将来いかなることがありましても、蒋介石を相手とすることはない。」
と答弁した。近衛文麿の抹殺声明は、参謀本部が主導したトラウトマン工作に止めを刺したばかりか、第一次近衛声明に将来の交渉の可能性を残そうとした外務省の配慮すらも粉砕してしまった。
中村粲の「大東亜戦争への道」はわざわざ註釈をつけて上村の配慮を紹介しながら、それを粉砕した1938年1月18日の近衛の抹殺声明を省略しているのである。そのうえで読者に「和平への道を閉ざしたのは、果たして日支いづれの側であつただらうか」と問い掛けるのは悪質な誘導尋問である。
読者に「近衛内閣は『国民政府を対手とせず』と声明し、みずから戦争収拾の道をとざしたと記述する高校歴史教科書は間違いである」と錯覚させるための虚報の詐術である。
この詐術の効果は「国民政府を対手とせず」の前段「加重された和平条件」の最後にある「汪精衛自叙伝は和平交渉を頓挫せしめた責任が、和平条件受諾を決定しておきながら、その回答を遷延した支那側にあることを物語つてゐるようである」との記述によって高められている。
もちろん直木孝次郎の高校教科書記述も悪質である。「華北の資源・市場を獲得しようとの意図から近衛内閣は派兵を決定し」とのウソを記し、北支において我が軍が支那軍から不意討ちを受けた廊坊、広安門事件(1937年7月25、26日)、事変以前から第二十九軍に内通していた冀東自治政府保安隊によって二百二十三名の邦人居留民が惨殺された通州虐殺事件(同年7月29日)、上海において和平工作に従事していた大山海軍中尉が支那軍に惨殺された大山事件(同年8月9日)、支那軍が我が海軍上海陸戦隊を攻撃した第二次上海事変(同年8月13日)を省いているからである。
歴史学徒はこの教科書の記述を糾さなければならない。教科書にだまされている人に真実を伝えなければならない。しかし中村粲は偏向教科書を糾すと称しながら、大学受験を通して高校教科書の虚偽記述を信じ込んでいる学生や社会人に対し、教科書とは別の虚報の詐術を仕掛けたのである。
まるで悪徳弁護士が出会い系婚活詐欺業者に騙された男性被害者を救済すると称してその男性被害者から法外な弁護士費用をぼったくり、被害者に別の出会い系さくら女性を紹介するようなものだ。被害者は泣きっ面にスズメバチである。こんなことを大学教授がやっていいのだろうか。
既に多数の毒書被害者を出している小林よしのりの天皇論と同じく大東亜戦争への道は罪深い。
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よくぞ言ってくれましたというのが私の正直な感想です。
中村燦教授のこの本に関して、私は学生時代に読んで変だと思って、ある保守系の大学教授にお話ししたところ、変だと言っていたのを覚えています。
中村教授が「大東亜戦争の道」を書いてるとき、すでに「戦争と共産主義」は図書館や古本であるはずで、現に中川八洋先生は古本で入手されたそうですし、「大東亜戦争とスターリンの謀略」は昭和62年に出ているわけですからいくらでも手段はあったはずです。