東京裁判での主張
東京裁判には証人として出廷し、重ねて、満州事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないと持論を主張した。
また、よく法廷において「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」と述べたと書かれることが多いが、実際には『石原莞爾宣誓供述書』によると「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります」と満州事変と満州国建国について、自分が意図したのではないと述べ、自らが戦犯とされるのをさけるとともに、板垣・土肥原の弁護につながる発言をしていた。
この解説は戦史研究所の管理人+αなる人物の石原莞爾はかく語りきに依拠している。しかしこの人物は以下の昭和21年の石原莞爾の発言を「東亜連盟という団体に責任転嫁しているのだ」と解釈する滅茶苦茶な人物である。
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東亜連盟は満洲建国に端を発せり。若し建国前後に於ける我らが心境の開陳を許さるるならば次の如し。
満洲事変前満洲に於ける日支の紛争は日に切迫し日本が政治的軍事的に全面的退却をなす以外平和的解決の道なしと判断せられたり。日本の退却後ソ連の南下に対し支那が独力防衛の力なきは明白にして日本の退却は更に新しき東亜の不安を招来せん。
満洲事変を契機として実力を以て満洲を支那より分離する行動は重大なる暴挙なるは明なるも反面これにより前項の不安を一掃すると共に満洲国の建設に際し日本が深き反省の下に本来の態度を一変し、満洲に於ける既得のあらゆる権益を満洲国に譲渡し、各民族は満洲国に於て全く平等の待遇を受け民族協和の実を挙げるに於ては却て遠からず支那の理解を得て多年に亘るお互の不信を一掃し得べきを信ぜり。
民族協和の理想は在満支那人中にも強き共鳴を以て迎えたる人多かりしも彼等は日支両国の和解なくしては安じて建国に協力し難しとせるは当然なり。依て日鮮支各民族の同志が研究協議の結果民族協和の理解を押し進めて道義による東亜連盟を結成すべしとの結論に達せり。これがため支那が満洲建国を認むるならば日本は支那に対する凡ての権益を返還すべきものとせり。
即ち日本は治外法権の撤廃、租界の返還等は勿論支那より完全に撤兵し支那の完全なる独立に協力せんとするものなり。東亜連盟の思想は満洲国協和会に採用せられ昭和八年三月正式に声明せられたり。
満洲事変勃発後一年ならずして関東軍の責任者は全部転出せしめられ満洲国は右方針と全く反対の日本独占の方向に急変し以後建国の同志の努力により時に改善の希望を与えたることありしも遂に大勢を挽回する能わずして今次世界大戦の導火線となれり。
我等は全世界に向い衷心より自己の不明を陳謝し、謹んで全責任を負わんと欲するものなり。
さらにこの+αは、偵察機が爆弾を搭載することは有り得ないから石原の証言は偽証だとか、守勢軍が野砲の配置を秘匿することは有り得ないとか支離滅裂なことをいい、あちらこちらのサイトに出没しては返り討ちにあっていた。
石原莞爾はもともと満蒙を日本が領有し対ソ防衛を確立するために、満州事変を強行したものの、満蒙領有は軍中央には認められず、石原自身が事変の途中から事変以前から満州独立運動を行っていた満州青年連盟の思想と活躍に心を動かされ、逡巡の末、ついに軍側の独立建国論者となったのである。
だから酒田臨時法廷の冒頭に石原が「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない」と証言して東京裁判の矛盾を突き、裁判中に「満州建国は、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります」と証言したことは全く矛盾しない。
また石原が「満州建国は東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたものだ」であり、日本軍の軍事行動は建国の契機に過ぎないと強調したことは、満州建国が青年連盟とか保境安民派といった満州独立派の自発的意思であり悲願であったことを証明しようとした弁護側の方針と合致する。
所長が+αにそのことを指摘したら、「事変以前から満州独立運動があったのなら、なぜ張学良は満州独立を認めなかったのか?」と聞き返された。
所長は苦笑し、張学良は在満民衆をいたわる民主主義者でも保境安民派でもなかったからではないか!と思ったものである。なお「人類後史への出発―石原莞爾戦後著作集」の巻末に解説を寄せた河野信氏や病気の石原莞爾をリアカーに乗せて酒田臨時法廷に運んだ人は、実際に裁判を傍聴し、裁判冒頭の石原莞爾の発言を聞いたそうである。河野氏は+αの史論?に憤っていた。
なお石原莞爾の衣鉢を継ぎ支那事変の解決に尽力した堀場一雄は東京裁判に出廷して判事と検事に挑戦し、危うく法廷侮辱罪に問われる寸前まで、白熱の応酬を繰り返した。しかしこの時の詳細は議事録には掲載されていない(ある作戦参謀の悲劇)。
昭和天皇は226事件で石原の評価を改めたのか、1936年11月から翌年の5月まで、石原莞爾は参謀次長西尾寿造中将が昭和天皇に行った戦史の御進講の補助官として侍立する栄に浴した。
昭和天皇独白録によれば、昭和天皇は石原莞爾について、「参謀本部の石原莞爾からも町尻武官を通じ討伐命令を出して戴きたいと云って来た、一体石原という人間はどんな人間なのか、よく判らない、満州事件の張本人でありながらこの時の態度は正当なものであった」と述べたという。
むしろ昭和天皇は、1939年平沼内閣が日独防共協定を軍事同盟に発展させる是非をめぐり紛糾していた際、板垣征四郎陸軍大臣と正面衝突した。
この問題について私は陸軍大臣と衝突した。私は板垣に、同盟論は撤回せよと云った処、彼らはそれでは辞表を出すと云う、彼がいなくなると益々陸軍の統制がとれなくなるので、遂にその儘となった。
西園寺公と政局によれば、1939年7月5日、昭和天皇は参内した板垣陸相に向かい「出先の両大使がなんら自分と関係なく参戦の意を表したことは天皇の大権を犯したものではないか、かくのごとき場合に、(陸相が)あたかもこれを支援するかのごとき態度をとることは甚だ面白くない」と面詰し、さらにイギリスの天津租界問題について、「お前ぐらい頭の悪い者はない」と板垣陸相を面罵したのである。
最後に石原莞爾の少し有名な以下のエピソードについて意外な事実を紹介しておこう。
石原の隣の家に柿の木があり,毎年実がほどよく熟す秋になると、近所の子どもたちがそれをもいでしまう。そのため木の持ち主との間でいざこざが絶えなかった。
そこで石原は、この問題を解決するために、柿の木を切り倒してしまった。石原にしてみればこれで問題は一挙に解決すると考えたらしい。
このエピソードは石原莞爾の近親者(確か弟の六郎氏)によって否定されており、石原莞爾平和思想研究会が山形県のシンポジウムに来た日本呪詛(ポスト・モダン)のテロル文藝家-福田和也に「地ひらく」から、このエピソードを削除するように要請したところ、福田は「小説だから」といって要請を拒絶したという。
史(ふみ)に乗っていることが真実とは限らない。史料から過去の真実を歴らかにするのは難しいものです。
しかしなまじの軍事学書より役に立つ昭和陸軍の良心を代表する堀場一雄の戦記ある作戦参謀の悲劇がテレビドラマになれば、日本人を覚醒させ、石原莞爾の最終戦争論と第二次世界大戦の戦略爆撃の生みの親となった戦略論大系ドゥーエが戦犯思想の1つであることは疑いない。
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