「私の上京は米軍も諒解している。私の在京中は、東京空襲はしないことになっている」
と語った。事実、繆斌の代表権が認められていた三月末までアメリカ軍の東京空襲はなかったという。繆斌を指揮していた重慶政権の戴笠中将は蒋介石の最側近であり、軍事委員会調査統計局(略称軍統局、俗称藍衣社)の長官であった。戴笠は、軍統局がアメリカの戦略事務局(OSS、CIAの前身)と合作して設置した中米合作社(SACO)の長を兼務し、彼の下にはアメリカ海軍のミルトン・マイルズ少将がおり、繆斌工作は蒋介石の認可を得ていただけでなく、アメリカ大統領直属の戦略事務局本部と直結していたのである。
このことは、繆斌工作の打ち切り直後から、戦略事務局がバチカンを通じて開始した対日和平工作の内容と符合する。
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第二次世界大戦において中立国ヴァチカンの法王庁外交の前提は中立政策であったが、イタリアが連合軍に降伏し、ローマがアメリカ軍の保護下に置かれたことによって、法王庁は次第にアメリカとの関係を深めていた。
戦略事務局のヴァチカン担当者ブレナンは戦略事務局長官ドノバンの命令を受け、1944年末より情報活動を展開していたが、ドイツの降伏後には法王庁の対米問題担当者ヴァニョッチを通じて日本政府に対する接触を試みた。
1945年5月27日、ヴァニョッチは日本公使館の教会関係顧問を務めていた富沢孝彦司祭に、「数ヶ月来ローマに在る一米人より和平問題に関し日本側と接触したきに付き橋渡しを依頼したし」と申し出、日本側の回答を督促した。日本の駐ヴァチカン特命全権公使の原田健は、この申し出の目的と信憑性を疑いつつ、6月3日にヴァチカンから東京の東郷茂徳外相に宛てて次のように打電した(6月5日本省着)。
「二十七日、前駐米法王使節館参事官にして目下国務省に在るヴァニョッチ司教は当館嘱託富沢司祭を来訪の上、実は数ヶ月来ローマに在る一米人より和平問題に関し日本側と接触したきに付、橋渡しを依頼したしとの申出あり。
先方の身分氏名等は申上げ得ざるが其の父親は社会的に相当有力なる人士なり。本人がカトリック教徒にして真面目なる人物なるが公の地位を有するものに非ず。
もっとも先方はいよいよ交渉の段取りとならば公の人間を以て之に当たらしむる用意ある旨述べ居たりと為し、本件申出の事由としては欧州戦争終結せるも其の後のソ連の態度により政局ますます悪化の徴あり、翻て極東においてはソ連は恐らく戦争の最後の段階に参戦し満州を手中に入れ中国共産政府を使嗾して其の地盤を確保せんとすべしと察せられ、他方従来の戦績を顧みるも米側において今後必ずや多大の犠牲を要すべく、また日本側に取りては既に戦勝の見込無しと断じ得べしと為すにあり、また米側休戦条件として差当り忖度し得るものは占領地の還附、陸海軍の武装解除、朝鮮の占領等にして国体問題には触れず又日本本土の占領を考慮し居らずと思考せらるると為し居たりと説明し、ただ事件は対ソ関係上極めて機微なるを以て此の点注意の要ありと附言したる趣なり(以下省略)」(終戦工作の記録下巻)
富沢とヴァニョッチから「無条件降伏の慫慂に過ぎざるものならば真っ平なり」との原田公使の回答に接した一米人ことブレナンは、自分の企図がアメリカ側の公の地位に在る者と日本とを非公式且つ極秘裡に会談せしめ両者の接近を図らんとするものであり、将来日本側より米側に伝達方希望あれば自分は何時にても連絡の労を執る用意があり、米側の主張する無条件降伏の建前は今更変更することは仲々困難であるが如何様にも解釈し得べきことを原田公使に伝え、原田はこの旨を東郷外相に宛てて6月12日に打電したもの、東京からは何の返電もなく、我が国の外務省は天恵に等しいバチカンの申し出を無視したのである。これは見事に的中した昭和天皇の深慮遠謀を台無しにした最悪の措置であった。
「開戦后法皇庁に初めて使節を派遣した、之は私の発意である。私は嘗てローマ訪問以来、法皇庁とはどうしても、連絡をとらねばならぬと思っていた、日本移民の問題に付ても必要があるからである。第一次近衛内閣の時、広田にこの事を話したら、広田も賛成したが、実現には至らなかった。
開戦后、私はローマ法皇庁と連絡ある事が、戦の終結時期において好都合なるべき事、又世界の情報蒐集の上にも便宜あることならびに、ローマ法皇庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考えて、東条に公使派遣方を要望した次第である」(昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記82ページ)
日米開戦後、様々な日米和平工作があり、複数の有望な和平仲介者がいた。しかし我が国はそれらを十分に活用できなかった。主な原因の1つは、東郷茂徳および外務省の硬直思考である。東郷は開戦直後の1942年の春に「世界の大国中日本とソ連とだけが戦争をしない関係にある、即ち恰も夕立の中に日光の射しているような場所だ、世界の平和はこの地点からこれを拡げて行くと言うのが自分の希望だ、だからソ連もその気持ちでもってやって欲しい」とのメッセージをソ連外相のモロトフに送った。これは殆ど妄想である。モロトフは心の中で東郷を嘲笑していたに違いない。
開戦早々に日米和平の仲介役を特定の一国に限定してしまった東郷茂徳の硬直的な外交姿勢が、1945年以降に連続的に発生した日米和平の契機を潰してしまったのである。
それを「少なくとも調停者はアメリカに頭下げさせられる他国で無いと駄目な訳ですよ。そんな国イギリス以外にありえないでしょう?そして、イギリスは当時日本と戦争中です。後先考えてなかった」と勝手に思い込む三輪耀山が非難して「当時の日本政府馬鹿過ぎです」と公言するのだから、呆れる他ないではないか。
所長が思うに、我が国の大東亜戦争は失敗の連続であったが、それらの中には叡智あふれる軍事、外交、内政が少なからずあった。日本の大人がそれらを子供を教え、子供が「ああっ惜しかった!」と我が事のように悔しがるようになってこそ、日本の子供は日本国を愛おしく思い、過去の教訓を未来に生かせるようになるのだろう。
だから小中高学校生は、テレビを潰し、右脳の覚醒を促し、日本人の英語力を飛躍的に高める受験生への神の恩恵

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・バチカン発・和平工作電―ヒロシマは避けられたか
・忘れるには惜しい日本人の暮らしが生んだ知恵事典

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中立国なら、両方の大使館があるわけだし、なんらかの行動はとれたはず。
三輪耀山なんてどうでもいいのでは?
所長さんのブログの方が好きだけどね。
saratomaさん、お久しぶりです。私はいちおう石原莞爾の遺志を継ぐ(笑)戦史研究所所長なので、デタラメな石原批判を放置するわけにはいけません。それに上の件も含め三輪耀山には3回いやな思いをさせられましたので、仏の顔も3度までではないですが、筆誅を加えました。