「将軍は先ほど法廷で『自分が戦争したのであったら、戦争は必ず勝っている』と申されたが、ジェネラルだったらどんな戦争をされたのでしょうか」
との記者の質問に石原は次のように答えた。
「先ほどは必ず勝つと言ったが、少々言葉が強すぎた。五分五分の持久戦になって、断じて敗戦にはならない」と言い直してから続けた。
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「私が戦争指導をやったら、補給線を確保するため、ソロモン、ビスマーク、ニューギニアの諸島を早急に放棄し、戦略資源地帯防衛に転じ、西はビルマ国境から、シンガポール、スマトラ中心の防衛線を構築し、中部は比島の線に退却、他方、本土周辺、およびサイパン、テニアン、グアムの南洋諸島をいっさい難攻不落の要塞化し、何年でも頑張りうる態勢をとるとともに、外交的には支那事変解決に努力を傾注する。
とくにサイパンの防衛には万全を期し、この拠点は断じて確保する。日本が真にサイパンの防備に万全を期していたら、米軍の侵入は防ぐことができた。米軍はサイパンを奪取できなければ、日本本土爆撃は困難であった。それ故サイパンさえ守り得ていたら、ボロなガタガタ飛行機でもなんとか利用できてレイテを守り、当然五分五分の持久戦で断じて負けてはいない。
蒋介石氏がその態度を明確にしたのは、サイパンが陥落してからである。サイパンさえ守り得たなら、日本は東亜の内乱を政治的に解決し、中国に心から謝罪して支那事変を解決し、次に民族の結合力を利用して東亜一丸になる事が出来たであろう」(秘録石原莞爾)
石原莞爾がUP記者カリシャーとAP記者ホワイトに語った日本の対米持久戦略は石原の後知恵ではなく、1942年ガダルカナル攻防戦が始まった頃、石原は、意見を求められた高松宮海軍大佐に同様の戦略を助言した。しかしこれは海軍首脳には届かなかった。
同年六月末、陸軍参謀本部内では、田中新一作戦部長が次の三要件(石原の持論である日中和平と東亜連盟の研究)を挙げて石原莞爾の現役復帰と参謀次長起用を企図し、これを杉山元参謀総長に具申した。
「日支関係調整に関する件」
1、過去五十年における日支関係の回顧、之が原因除去に関する検討
2、将来永遠に亘る日支関係の樹立に関する新原則の設定
3、当面の対支措置に関する再検討
戦局重大化の折りから、国の総力を挙げて戦う以上、野に遺賢あらしむべからず。殊に洞察の明に富める石原中将を起用するのは当然であり、それも第一線ではなく、統帥部の事実上の首班たらしめることが最も適切である、という第一部長の平素の考えを実現したものである」
しかし杉山総長は難色を示し、田中部長は自ら意見を取り下げ、石原莞爾参謀次長起用論は立ち消えてしまった。
日米戦争は日中戦争の延長戦であるから、日米間の早期講和のきっかけを生み出すために、まず日中講和を実現して日本の国力を回復しつつアメリカから対日戦争遂行の大義名分を奪うのは戦時外交の正道であり、吉田茂らのグループが日中講和を模索していたが、実際には石原莞爾が東亜連盟運動を通じて行った繆斌(ミョウヒン)工作が小磯内閣の最高戦争指導会議に採り上げられた。
繆斌工作の骨子は、(一)南京政府の解消(二)日中停戦と日本軍の撤兵(三)中華民国が日本と英米との和平を斡旋する、というもので、小磯首相はこの和平工作の実施を主張したものの、重光葵外相の猛反対に遭い、小磯内閣は崩壊し繆斌工作は潰えてしまった。
ソ連の対日参戦と日本の完全敗北が引き起こすソ連および中国共産党の勢力拡大を危惧していた蒋介石は、この繆斌工作を積極的に支持しており、共産党に敗れた国民党が台湾に落ち延びた後、蒋介石は側近の白団長の白鴻亮こと富田直亮少将へ次のように述懐したという。
「あれは私がやった。あんなことにならねば、こんなことにはならなかったろう。日本が取り上げなかったことは、まことに残念であった…」
また石原莞爾の同期の桜には陸軍におけるユダヤ人問題の権威であった安江仙弘がいた。戦後の日本人が忘れてしまった偉大なヒューマニスト安江仙弘陸軍大佐は1938年から大連に特務機関を置き、極東ユダヤ人会会長のドクター・カウフマンと共にドイツから満州国に逃れてきたユダヤ人難民の救済にあたり、1940年にはルーズベルト大統領の親友かつ側近のラビ、ステファン・ワイズとのホットラインの確保に成功した。
1944年のサイパン陥落直後、石原莞爾から「日本すでに敗れたり」との親書を受け取った安江大佐(当時は予備役)は直ちに対米和平工作を開始したところ、ヤルタ会談前の1945年1月、ステファン・ワイズから「日本が大陸および南方戦線から全面撤兵し、満州をユダヤ人安住の地として認めるなら、和議に応じても良い」との回答があり、重慶政府の何応欽大将からも主旨了解の親書が安江大佐の元に届いたという。
安江は陸軍中央に連絡して承認を求めたものの、矢の催促にもかかわらず陸軍中央は「今しばらく待て」を繰り返し、1945年4月に秦彦三郎中将が関東軍総参謀長として満州に赴任してくるや、この安江の対米和平工作を潰してしまった(以上の記述は主に「繆斌工作」成ラズ―蒋介石、大戦終結への秘策とその史実に拠る)。
所長が知る限り、石原莞爾はアメリカ大統領ルーズベルトに大きな影響力を行使し得る蒋介石および中華民国政府と、ステファン・ワイズおよびユダヤ人勢力に日米和平の仲介を依頼し、早期講和を実現しようとしていたのである。
それなのに、上の史実を知らないまま石原莞爾を揶揄する「調べない」ブロガーが三輪耀山である。三輪の記事「日米の戦争は講和可能だったか?」を以下に引用する。
例のハンニバル論とも組み合わせて、日米の講和が可能だったかどうか検証してみる。
私の結論としては「不可能」と言う判定。
戦前の日本人の対米戦争観は「敵を倒せないのはわかっているから講和で手打ちするしかない」と言う事で一致していた様です。
>石原莞爾はもし自分が総司令官であれば今度の戦争に負けはしなかった、とアメリカの記者に語っている。
>勝てるとは言っていないのは、元々このアメリカとの戦争は西太平洋に迫るアメリカを迎え撃つ防衛戦争であり、日本にとっては降りかかる火の粉を払う戦争であったということであるから、ワシントンまで攻め入ってそこで城下の盟を結ぶなどということは考えていなかったまでのことである。
>日本とアメリカの国力差は1:25、資源など見れば更にその比率は数百倍になると石原は知っていたから勝てるなどとは毛頭考えてはいなかった。
ここまではオケ。しかし次が悪い・・・。
>しかしアメリカが日本を打ち負かすことはできないと判断せざるを得ない情況にもって行き、
軍事的にはどうやって?と言うレベルですね。
あんだけ長々とハンニバルについて語ったのは「回復力の高い国家は戦況が不利でもなかなか降伏しない」と言う事を論じるためです。
日米戦争と言う事では、実はアメリカを純軍事的に降伏させる方法は無いと言って良い。こんな事は知識人の誰にでもわかっていたでしょう。
>結果的に講和に持っていければ、そこで済む戦争となるのである。
>ようするに日露戦争型の戦争終結は可能であったということである。
これですね、これ。
もう日本人の戦争観が歪んでしまったのは、日露戦争と言う「強烈な勝利体験」が原因でしょう。
日露戦争で日本は本当に勝ったのか?と言う問いには、「勝ったとしておかないと、トラウマが酷過ぎて収まりがつかなかったんだよ」と答えるしかありませんね。
戦前の日本人、特に海軍中心に痛~い所は「日露戦争で勝ったと言う事にできたのは、アメリカが不利な条件ではあっても調停してくれたから」と言う事を「無理やり忘れようとしていた」と言う事ではないのでしょうか?
石原莞爾将軍も、この人戦術戦略の大家だそうだけど、その事実をキッチリ忘れている。
さあ、対米戦争の調停ってどこの国にして貰う訳なんですか?
苦笑しちゃいますね。少なくとも調停者はアメリカに頭下げさせられる他国で無いと駄目な訳ですよ。
そんな国イギリス以外にありえないでしょう?
そして、イギリスは当時日本と戦争中です。
後先考えてなかったとしか思えませんね。当時の日本政府馬鹿過ぎです。
石原莞爾の伝記や最終戦争論・戦争史大観に代表される石原の著作を一冊でも読んだことのある人は、三輪のごとき石原批判を絶対に行わない。
なぜなら石原軍事学の自伝「戦争史大観の序説(由来記)昭和15年12月31日脱稿」の冒頭に以下の石原の有名な告白が載っているからである。
私が、やや軍事学の理解がつき始めてから、殊に陸大入校後、最も頭を悩ました一問題は、日露戦争に対する疑惑であった。日露戦争は、たしかに日本の大勝利であった。しかし、いかに考究しても、その勝利が僥倖の上に立っていたように感ぜられる。
もしロシヤが、もう少し頑張って抗戦を持続したなら、日本の勝利は危なかったのではなかろうか(中略)。
日露戦争はモルトケの戦略思想に従い、「主作戦を満州に導き、敵の主力を求めて遠くこれを北方に撃攘し、艦隊は進んで敵の太平洋艦隊を撃破し以て極東の制海権を獲得する」という作戦方針の下に行われたのである。武力を以て迅速に敵の屈服を企図い得るドイツの対仏作戦ならば、かくの如き要領で計画を立てておけば充分である。元来、作戦計画は第一会戦までしか立たないものである。
しかしながら日本のロシヤに対する立場はドイツのフランスに対するそれとは全く異なっている。日本の対露戦争には単に作戦計画のみでなく、戦争の全般につき明確な見通しを立てて置かねばならないのではないか。これが私の青年時代からの大きな疑問であった。
日露戦争時代に日本が対露戦争につき真に深刻にその本質を突き止めていたなら、あるいは却ってあのように決起する勇気を出し得なかったかも知れぬ。それ故にモルトケ戦略の鵜呑みが国家を救ったとも言える。
しかし今日、世界列強が日本を嫉視している時代となっては、正しくその真相を捉え根底ある計画の下に国防の大方針を確立せねばならぬ。これは私の絶えざる苦悩であった。
石原は戦争を決戦戦争と持久戦争に区分し、持久戦争においては「武力の絶対的地位が低下するに従い、財政外交等はその地位を高む」と述べて、その戦争指導の要諦を解説し、参謀本部作戦部長の時に支那事変の勃発に遭遇した石原は、自分の不拡大方針が破れた後、蒋介石に影響力を行使できるドイツ政府に和平仲介を依頼するトラウトマン工作の端緒を作り出した軍人である。また石原莞爾は1938年年11月、石原莞爾は外交国策に関する所見として次のような対米外交を提言していた。
三 対米外交
現勢に於ては極力米国の好意を維持するを主眼とせざるべからず。現在米国の対日感情は極めて不良たることは万人の認むる所なり。
かかる形勢を転換する方策として次の二点を考え得べし。
(一)「ユダヤ人」問題
我が国にとり極めて重大なる問題たるに拘らず、真剣に研究せらるることなきは遺憾なり。
昨年暮、「ハルビン」に於て、極東「ユダヤ人」大会の開催せられたることの全「ユダヤ人」に与えたる衝動は極めて大なりしも、我が国は独逸との関係を顧慮し、此の機会を有効に把握せざりしが如し。
独逸の「ユダヤ人」排斥は根拠あれども、我が国としては冷静に考慮し、公正なる判断を下さざるべからず。吾人の見解は独逸の了解を求めて「ユダヤ人」を徹底的に利用するのみならず、進んで極東の一角に「ユダヤ」国建設の好意を示すも不可ならずとするにあり。
これが米国の輿論に与うる影響の大なることは何人の予測も許さざるべし(石原莞爾資料国防論策編)。
この石原莞爾が日露戦争の教訓を忘れ、日米戦を五分五分の持久戦にもちこむ軍事戦略のみを構想し、大戦を終結させる外交秘策を全く考慮していなかったなどというほどデタラメな史論があるか!
読者の皆様には、所長が弊ブログの記事「ヤギを悪魔化する三輪耀山」で三輪に筆誅を加えた理由がお判りいただけたと思います。
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<関連ページ>
・昭和天皇の深慮遠謀-1945年6月のヴァチカン工作
・共産党のスパイ疑惑を指摘されている中華民国軍の張治中の回顧録が公開されていた-中国の対日政戦略―日清戦争から現代にいたる中国側の戦略思想
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他の先進国が中国人を受け入れて大混乱に陥って事も教訓とし、日本国民に賢明になるよう説得しています。
フランス国営放送「お笑い日本の実態」
http://blogs.yahoo.co.jp/hazuki73ry/54434728.html
いやはや、米国民は基本的に厭戦機運が高いから、石原氏のいう「アメリカが日本を打ち負かすことはできないと判断せざるを得ない情況」が続けば、真珠湾の煽動効果が薄れて講和の行く可能性が高いのに。
事実、硫黄島の苦戦で米国に厭戦機運が高くなりました。
三輪さんも大東亜戦争の敗戦が印象に強く残りすぎているような気がします。