「さて枢密院の会議の開催せらるる迄は、憲法草案は伊藤公がドイツにて研究し、帰朝の後、井上、伊東、余の三人とのみ密議秘記し、毫も他人に相談せずして起草したるものなれば、必ずビスマルク的の専制憲法ならんと朝野の間に批難喧伝せられしが、一たび枢密院の会議に提出せらるるや、内閣大臣及び顧問官に於いて之を審議せられ、殊に王政復古の大元勲三条公、維新前後に於いて大いに尽瘁せられたる薩長二藩の文武の元勲、又旧改進党の総理にして当時の大隈外務大臣。旧改進党副総理の河野顧問官、保守的国粋論者の鳥尾顧問官、或いは勤王誠忠の土方内大臣、佐々木顧問官、漢学の碩儒元田、副島の両顧問官等ありて、誠心誠意数ヶ月に渉り審議研究せられたれば、世間の風評は忽ち雲烟(煙)の如く消散した。
また会議のまさに終局を告げんとする時、余は勝顧問官(安房)に向い、貴下は一言も発議せざりしが、意見はなきかと問いたれば、勝顧問官曰く、実は顧問官に任ぜらるる迄は、伊藤さんの起草せらるる憲法に付ては、朝野の人々より種々なる批難を聞きたれども、今この原案を見たるにサラサラと読めて、実に結構に出来て居るから、別に意見はありません、と。
かくのごとき情況にて憲法は枢密院の決議を経てここに完成した。」(憲法制定と欧米人の評論165~166頁)
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さらに林田亀太郎著「明治大正政界側面史」は、さらに詳しく勝安芳(海舟)の発言を紹介している。
「勝伯も明治十九、二十、二十一の三年間、国務に関し屡々(しばしば)上書もし、建白もせられたから、必ず議論があることと予期していたが、伯爵は大隈伯と違い、毎回出席して熱心に討論を傾聴して居らるるに拘らず、未だかつて一言も発せられたことがない。我輩(金子)も不思議に思い、伯爵が黒田家と懇意で時々屋敷に見えるを幸い或る機会に其の理由を質した。
勝伯曰く、伊藤はかつて国会尚早を唱え、後ドイツに遊び教えを其の国の碩学に受けたから、必ずビスマルク一流の圧制的憲法を立案するに相違ないと想像して居たから、事前に之を匡救したいと思って数次意見も述べたが、さて愈々(いよいよ)配布された草案を見ると案に相違し、さらさらと読めて淀みがなく実に上々の出来栄え、この点の打ち所がないか或いは何処にか瑕瑾がありはせぬかと諸君の議論を聴くのを楽しみにして毎回出席して居るが、未だかつて一つも之を見出さぬから沈黙して居る次第だと答えられた」
数ヶ月に渉る枢密院憲法制定会議の審議研究を経て、伊藤、井上、伊東、金子らの起草した憲法は「必ずビスマルク的の専制憲法ならん」という世間の批難喧伝が雲散霧消したことは当然の結果であったろう。
ドイツの法学者グナイストはドイツ留学中の伊藤博文一行に対し「日本帝国は宜しく兵権を堅く収め、予算の権能を議会に委ねず、兵馬の権と共に之を帝室および政府に有し置くべし」と助言したにもかかわらず、伊藤らが起草した帝国憲法は第六十四条に「国家の歳出歳入は毎年予算を以て帝国議会の協賛を経べし 予算の款項(かんこう)に超過し又は予算の外に生じたる支出あるときは後日帝国議会の承諾を求むるを要す」と明示したのである。
憲法義解第七十一条「帝国議会に於いて予算を議定せず又は予算成立に至らざるときは政府は前年度の予算を施行すべし」解説稿本(義解稿本)にある次の文章は、グナイストへの伊藤博文の反論であり、帝国憲法起草者の調査研究の結論であった。
「国会に於て予算を議決せず、又は予算成立に至らざるときは、或る国に於て其の議決の結果をして従て行政の機関を麻痺せしむるに至るが如きは(米国千八百七十七年)、是れ主権在民の主義の上に結架せる邦国の情態ににして、我が国体の固より取るべき所に非ざるなり。
又或る国に於て此の場合を以て一に勢力の判決する所となし、議院の議に拘らずして財務を施行せるが如きは(普国千八百六十二より六十六年に至る)、これまた非常の変例にして立憲の当然に非ざるなり。
我が憲法は国体に基き理勢に酌み、此の変局に当り前年の予算を施行するを以て終結の処分とすることを定めたり」(枢密院帝国憲法制定会議(1940年)附録「憲法説明」及び「参照」676~677頁)
伊藤博文らは比較憲法学を用いてヨーロッパ各国憲法の長所を学び、その短所を捨て、帝国憲法の第七十一条に我が国独自の見解に基づく予算施行制度を創定したのである。
然るに戦後日本の憲法学と歴史学の大勢は、帝国憲法の評価に限り、枢密院憲法制定会議(明治21年6月18日~明治22年1月31日)開催以前の無知な「世人」程度まで退行したと言わざるを得ない。それどころか明治の世人より劣化しているとさえ言えよう。
少なくとも帝国憲法制定当時の世人は、新聞、雑誌、演説において盛んに憲法起草者を批難攻撃することができた。そして枢密院憲法制定会議では明治天皇の御前を憚らぬ自由闊達な討議と赤誠溢れる闘論が交わされた。当時の宮内大臣土方久元の談話は会議の様子を次のように伝えている。
「各大臣は無論の事、枢密顧問官は皆大抵若い人が多かったから、少々の病気くらいは押して出るというような有様で、何れも心血を注いで討議し、時には熱烈火を発するごときの激論数刻に渡ることもあり、凡て御前において、あれだけの大臣その他の高官の人々が集まって、大議論をやったことは、前後あるまいと思う。
大議論があってから、一週間も経って、後に何れかの折の御話に、陛下には先達の何々の会議の時、何々の箇條に就いて、何某の述べた論は、あれは余程名論であった。何某の趣旨は良かったが、弁舌が十分に行き届かぬで残念に思う。というように種々御批評あそばされ、我々はもう疾くに記憶を消し去ってしまったことも、能く御記憶があって、その御批評の的確なる、その判断の明白なる、御記憶強く、御才徳の秀でたまうことを、感服し奉ったのである」(明治天皇と立憲政治117~118頁)
然るに日本国憲法制定当時の日本の世人には、新聞、雑誌、演説において憲法起草者たちへの批判すなわち「SCAP連合国最高司令官(司令部)に対する批判」と「SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判」を行うことは許されなかった。
それどころか日本国憲法の原案が英文のGHQ草案であることを示唆する憲法論文すら検閲の対象となり、書籍よりGHQによって削除された(一九四六年憲法-その拘束―その他51~55頁)。そしてGHQは日本政府に三度目の原爆投下を示唆し、昭和天皇を人質に取り、ポツダム宣言違反の検閲と公職追放を濫用し、日本国憲法の制定に対する反逆を封じており、日本国憲法の原案を審議した帝国議会は、日本政府と同じくGHQの指示に従属せざるを得なかった。
帝国憲法の制定過程より日本国憲法の制定過程の方が、はるかに不自由であり反民主主義的であり暴力的であった。それなのに戦後の日本では、憲法学者と歴史学者とマスコミ人の多くが、帝国憲法をドイツ式天皇絶対主義の専制的憲法と罵り、マッカーサーらGHQの違法な軍国主義(軍人による政治支配)を日本の民主化と擁護し、その戦争犯罪の産物である日本国憲法を礼賛するのである。
これを日本憲法学の退行劣化と言わずして何というのか。
【枢密院帝国憲法制定会議の列席者】
玉座 明治天皇
枢密院議長 伊藤博文
同書記官長 井上毅
同書記官兼議長秘書官 伊東巳代治
同書記官兼議長秘書官 金子堅太郎
同書記官 津田道太郎
同書記官 花房直三郎
同書記官 牧朴眞
皇族
一番 熾仁親王
二番 彰仁親王
三番 貞愛親王
四番 能久親王
五番 威仁親王
大臣
六番 三条実美(内大臣)
七番 黒田清隆(内閣総理大臣)
八番 山県有朋(内務大臣)
九番 大隈重信(外務大臣)
十番 西郷従道(海軍大臣)
十一番 山田顕義(司法大臣)
十二番 松方正義(大蔵大臣)
十三番 大山巌(陸軍大臣)
十四番 森有礼(文部大臣)
十五番 榎本武揚(逓信兼農商務大臣)
顧問官
十六番 吉田清成
十七番 勝安芳
十八番 河野敏鎌
十九番 元田永孚
二十番 品川彌二郎
二十一番 吉井友実
二十二番 東久世通禧
二十三番 佐野常民
二十四番 副島種臣
二十五番 佐々木高行
二十六番 福岡孝弟
二十七番 川村純義
二十八番 大木喬仁
二十九番 土方久元
三十番 寺島宗則(枢密院副議長)
<関連ページ>
・帝国憲法を理解するための必読書-帝国憲法起草者のひとり金子堅太郎著憲法制定と欧米人の評論
・日本の憲法学は退行したが、日本のIT技術は日進月歩です


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