マッカーサー司令部はつぎのような見解を抱いていた。
「日本は息絶え絶えである。日本の息を止めるには、通常兵器で十分である。戦争の最後の瞬間に、つまり日本の降伏のほんの一週間前に、ソ連が参戦することを許さねばならない理由はまったくない。アジアの広大な地域を共産主義家するためのお膳立てをしてやるなんて、とんでもないことだ」
それにしてもなんとバカげたことだろう。日本の弱体であることが完全に暴露されていた以上、原爆を使用する正当性はなかったのである。それに、ある一国家がそれまで知られていなかった武器や絶対的威力を秘めた軍事技術を占有するといったことは、軍事史上稀なことである。もし、トルーマンが原爆を秘密にしつづけていたなら、今日における米国の政治的かつ軍事的な立場は難攻不落のものとなっていたことだろう。秘密を時期尚早に漏らした結果、生来の裏切り者、サボタージュをする市民等といった、現代政治を退廃させる忌まわしい要因となる連中を通じて、ソ連はスパイ行為を強化したのである。
我が国に破滅的な損害をもたらした支那事変の長期化と原子爆弾の投下は、いずれも文民政治家が決定したことなのに、過去の反省の証としてバカの一つ覚えのようにシビリアンコントロールの確立を叫ぶ日本人は戦後民主主義洗脳狂育の被害者である。「ウイロビー回顧録知られざる日本占領」は良い覚醒剤になるだろう。
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知られざる日本占領 ウィロビー回顧録の目次
序文
日本降伏前夜
ペリー提督の予言
降伏使節団
厚木に到着
マッカーサーと天皇
日本人の心理
信念に基づく任務
捕虜救出に最優先権
順調にすすむ武装解除
洗脳されたソ連引き揚げ者
対日理事会での確執
行方不明五十万人の謎
驚くべき洗脳教育
ソ連大使館とスパイ行為
ゾルゲ事件の全貌
正確無比な諜報活動
第四四一防諜部隊
ゾルゲグループの釈放
カナダのスパイ事件
腰くだけのワシントン
「事件公表は軍の不手際」
ゾルゲの手記には
GSとG2の対立
ホイットニーとウィロビー
日本の警察組織の改変
くわせ者だった美人職員
GS対吉田茂
「昭電事件」を摘発
GHQの内戦
左翼主義者の浸透
ホイットニーとの対立
あいつぐ不当な干渉
朝鮮戦争は不意打ちだったか
宣戦布告なき戦争
GS、開戦を探知
水掛け論に終始
マッカーサー、戦場へ
仁川上陸プラン
ウォーカー、ふんばる
「クロマイト作戦」開始
大勝利に終わった仁川作戦
集結した「ならず者集団」
中国軍集結の報告書
将軍が敵地に潜入
敵の警備隊とバッタリ
非協力的な情報官
対決する大統領とマック
トルーマンは語る
マックの反論
マックの解任の口実
「老兵は死なず」
あとがき
また仁川上陸作戦時のウィロビー少将らG2のスタッフが行った戦場諜報の記述は戦時の緊張感と任務の難度-先発する戦場諜報部隊は決死隊である-をよく描写しており、時代と地域を問わず作戦発起前の徹底的な情報の収集と分析とが作戦成功のカギを握っていることを読者に教えてくれる。そして諜報担当者は味方の身辺調査も怠ってはならないのである。ウイロビー少将が最高司令官および参謀長に提出した「総司令部への左翼主義者への浸透状況」(一九四七年四月二十三日付)とこの文書の作成のために使用された調査メモは、ソ連の諜報謀略活動とGHQ民政局が主導した占領政策を分析する歴史学徒の必須資料である。
1947年1月15日にCIS(民間情報局)作戦特殊活動課から届けられた「調査メモ」の中には、さらに数名の民政局員の名がある。ところが残念なことに、そのうちの二名は女性であったことである。ビッソンとともに財閥解体に異常とも思える情熱をもやし、敏腕をふるった総司令部きっての美人、ミス・エレノア・M・ハードレーと、ケーディス大佐のもとで新憲法草案を日米共同で翻訳したときの米国側スタッフの一人として活躍した、ミス・ビート・シロタの二人だ。
二人が女性であったということもあるかもしれないが、私は直接この二人のお嬢さんがたを知らないから、個人的意見や感想をはさむことができないので、調査メモの原文を記すにとどめる
調査対象者 ミス・ビート・シロタ GHQ民政局勤務
情報の概容-対象者は、不当にもGHQの責任ある地位に採用された文官の、もう一つの顕著な実例である。まだ二十三歳でしかない(一九二三年十月二十五日生)。
両親はロシアのキエフの生まれだが、出身はオーストラリアだと申し立てている。両親の職業は音楽家で、のちにウィーンに移住し、そこで彼女が生まれている。
一九二九年、シロタ一家はオーストリアから日本に渡来し、当地に無国籍者として定住、音楽家の職をつづけた。十年後の一九三九年、一家はアメリカを訪れ二ヵ月ほど滞在したが、彼女だけはそのまま残ってミルス・カレッジに入学、一九四三年に卒業した。その間の一九四一年に、両親は二度目の渡米をし、約四ヵ月いた。戦争勃発直前にも両親は渡米を計画し、再入国許可も取っていた。しかし戦争がはじまったため日本を出られなくなり、そのまま戦争中は日本で過ごすことになる。最初の二年は東京で、あとは軽井沢で暮らしていた。日本側に抑留されていたわけではないが、毎日のように憲兵隊がやってきては、あれこれ聞かれたと述べている。
戦争の初期には、父親のレオ・シロタは、日本政府の役人相手にコンサートを開くのを許されていたが、のちにはそれも中止させられた。両親は、もう一人のロシア生まれの音楽家アレクサンダー・ムギレウスキーの古くからの仲間で、占領後はこのムギレウスキーと共に日本各地をまわって、占領軍相手にコンサートを開いている。『大阪朝日新聞』がそのスポンサーである。
一方、アメリカに残っていたミス・ビートは、戦争中は連邦通信委員会に就職し、日本の放送のモニターをしていた。のちに陸軍情報部に籍を置き、一九四五年七月から十月にかけては『タイム』誌で調査の仕事をしていた。しかし、彼女がアメリカの市民権を取ったのは一九四五年一月十五日である。一九四五年十二月二十七日、彼女はGHQ民政局に調査分析官として採用された。
シロタ夫妻は、東京で成功している少数のロシア系ユダヤ人音楽家だ。彼らの多くは国が後援するオーケストラに所属している。ここで注目したいのは、シロタ一家が、戦時中毎日のように憲兵の巡回を受けながらも、前期のごとく抑留されたり、妨害されたという事実がないことである。どうやら日本の官憲は、戦争中にソビエトとのヨリを戻そうという日本政府の思惑から、たとえ無国籍とはいえ、ソビエトの背景を持つ人物に対しては寛大に扱うことにしていたようだ。
とはいえ、シロタ夫妻の親友にして同僚であるムギウレスキーは、有名なソ連スパイ団-ゾルゲ事件-にある程度関与していたという証拠があるのである。一九四六年五月一日の報告によれば、シロタ夫妻は、終戦後は日本にいるロシア人と親しくつき合うようになり、ソ連大使館で演奏会をやって、テレビヤンコ将軍にソ連旅行に招待されるほどのもてはやされようだったという。つまり、簡単にいうと、戦争中の日本におけるシロタ家の立場は、彼らが無国籍者であるという事実にもかかわらず、彼らがソビエトの保護を受けていたのだということを強く暗示しているのである。
シロタ一家に対する疑問はこれだけではない。一九二九年、シロタ一家は無国籍者であるにもかかわらず、ウィーンの警察長官の紹介状を持ってやってきたのである。そしてアメリカに二度渡り、のちにはアメリカ市民権を得ることを強く望んだにもかかわらず、相変わらず日本に留まっていた。さらに不思議なことは、一九三九年、円の価値が低落し、厳しい為替統制令が実施されている最中に、彼らは娘をアメリカに留学に出すことができたということである。この点を裏付ける証拠はないが、しかし、シロタ家の曖昧にして奇怪な経歴は、彼らの日本への長期滞在が望ましいばかりでなく、何かの得になるような特殊な結びつきと特別な立場を、彼らがもっていたらしいということを強く暗示してはいまいか。同時に日本滞在を通じて、とくに戦争中シロタ夫妻が日本人への強い憎しみ、とりわけ日本の警察に対する憎しみを育てていったことは明らかである。そして日本の警察と官僚組織に対する圧倒的な嫌悪を、いまや娘のミス・ビートが受け継いでいるわけである。
いま、この破格に若い少女が、日本問題の専門家としてGHQ内に非常に責任ある地位を占めているのである。その地位にあって、彼女は日本の警察と地方官僚のパージの専門家という大義名分のもとに、抑えてきた彼女の個人的憎悪をぶちまけるという子供じみた喜びに浸っているのである。このように若く、未熟で、曖昧な過去を持ち、個人的な強い憎しみを抱いて、アメリカの市民権をあわてて取ったような人物が、占領政策の成否のみならず、窮極的にはアメリカの安全の成否にまでもかかわる問題の担当官なのである。
アメリカの力とマッカーサー元帥の威光をカサに着て腕をふるうことは、危険と断定しないまでも、どこかつじつまの合わないことだといわなければならない。日本での長期滞在による彼女の語学力と日本についての知識を別にすれば、このような気質と過去を持ち、極端に若く未経験な人物が、占領およびアメリカの安全に不利な影響を及ぼしうるような責任ある地位に納まりえたということは信じがたいことである。これもまた、本人の過去の記録や健全性をよく調べて、資格を検討しなかったことによる、不適切な文官採用のきわだった一例といわざるを得ない。
警察と地方官僚のパージに当って、ミス・ビート・シロタが個人的な憎しみを持ち込むというやり方は、日本の「中央連絡事務所」に、最近民政局は共産主義がかってきた、日本の共産主義者がそこの左翼職員と密接につながっているのではないか、という印象を与えるにいたっている。まあ日本人職員が何と思うかはともかく、彼女の個人的な怨みと勝手な行動のために、民政局そのものが、左翼的な共産主義の息のかかった政策プログラムを押し進めているいるかのような印象を世間に及ぼしていることは問題である。
さらにまた、民政局の力を借りた個人的な改革が、価値あるものかどうかは別として、この局の仕事はある特殊なイデオロギーに偏向しているという印象がもたれているのである。このことは、見方を変えれば、アメリカの立場からする占領政策の成功に不利な結果をもたらすだけであり、かつまた、日本共産党およびソ連を不当に激励することになる。
一例を挙げれば、彼女が共産主義者の逮捕に関係した警察官のパージの範囲を、断固として一九三一年以前にまで拡張し、その結果、その間の共産党員の検挙、とくに一九二八年五月の逮捕(現在の党指導者の多くがこれに含まれている)に関係した何百人という警官をもパージの対象にしようとしたことは、はっきりわかっている。
ところで、彼女が民政局に採用されるにあたって記した保証人の中に、レーモン・ラバルの名が見える。ラバルは前アルゼンチン領事館員で、戦争勃発時にホンコンで捕らえられ、一九四二年の最初の交換船で日本から本国に送還された人物である。アメリカに到着して、彼はアルゼンチン市民権を放棄し、アメリカに留まった。それ以後ラバルは、極東情勢に関する多数の左翼文書を出版し、講演旅行をし、のちに陸軍情報部に地位を得た。しかし、ラバルの経歴と活動には、かなり疑わしい点がある。目下、海軍情報部の調査を受けているところである(知られざる日本占領―ウィロビー回顧録179~183ページ)。
この調査メモのシロタ評は、1951年5月1日アメリカ上院軍事外交委員会マッカーサー証言と同じぐらい重要ではないだろうか。
日本国憲法の内容と制定過程はアカに塗れていて本当に醜い。日本国憲法を「ベアテの贈り物」とか有難がり「女性の幸福」と憲法をベアテと語る連中は正気ではない。
<関連記事>
・不愉快!くさいアカの憲法学
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三田村武夫の「戦争と共産主義」原本を読売新聞社長・馬場恒吾に持っていって、それを読んだ馬場がウィロビーにこれを示し、ウィロビーはこれに危機感を感じてゾルゲ事件を調べ、結果としてニューディーラーを含む共産主義者らを追及するマッカーシーの動きに繋がったと、中西輝政先生が書いてましたね。明成社のブックレットに。
私が知りたいのは、GHQの誰が具体的に何の為に戦争と共産主義を事後検閲して発禁処分にしたのか、また何故、復刊が1987年にまでズレ込んだのかということですが、三田村さんの遺族の方はどこにおられるのか不明なのです。