朝日新聞血風録第三部「塗りつぶされた戦争協力研究」には、朝日新聞記者であった稲垣武氏が社内調査研究員として三国同盟と世論形成-マスコミの生理と病理という題の研究報告書を公表しようとしたところ、朝日新聞上層部がこれに執拗な検閲を行い、朝日に都合の悪い部分をズタズタに削除し或いは改竄し、ついに幻の研究論文にしてしまった経緯が詳述されている。
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同社史には満州事変での報道合戦と、その膨大な経費が会社経理を圧迫したことは記述してあるが、写真展・記者講演会、さらに村山龍平社長が率先して一千円を寄付した慰問金・慰問袋募集や軍用機献納運動を社業として大々的に行った事実には全く触れられていない。
朝日新聞が社論や報道姿勢を転換せざるを得なくなった要因は、内務省警保局の検閲というより、在郷軍人を中心に展開された不買運動であった。部数減少によって経営が圧迫されるのを恐れた企業要請からである。また競争他社の中にはこれに便乗して、朝日は反軍的新聞とする宣伝ビラを配布、読者を奪おうとした新聞社まであった。政界と同じく見境のない泥仕合が横行しており、それが自らの手で言論の自由を絞め殺す結果となったのである(朝日新聞血風録144ページ)。
さらに当時急伸した新しいメディアであるラジオに対抗するための速報競争に莫大なコストをかけて新聞が狂奔した結果、大衆感情に迎合する紙面づくりで部数拡張に努めざるを得なかったこと、そしてその最も手っ取り早い手段として戦場報道に各紙が争ってのめりこみ、マスコミの一致協力で大衆の間に盲目的愛国主義と戦争熱(ジンゴイズム)をしっかり根づかせてしまい、読者を失う覚悟がなければ紙面の編集方針の転換が不可能になってしまっていたことを指摘したあとで、緒方竹虎朝日新聞主筆が、戦後、米内光政海軍大将の伝記に寄せた序文、
『筆者は今日でも、日本の大新聞が、満州事変直後からでも、筆をそろえて軍の無軌道を責め、その横暴と戦っていたら、太平洋戦争はあるいは防ぎ得たのではないかと考える。それが出来なかったについては、自分をこそ鞭打つべく、固より人を責むべきでないが、当時の新聞界に実在した短見な事情が機宜に筆を揃えることをさせず、徒に軍ファッショに言論統制を思わしむる誘導と間隙を与え、次々に先手を打たれたことも、今日訴えどころのない筆者の憾みである』を引用し、
「ここにも自らが大衆に植えつけたイメージ(それは大衆に理性的判断を可能にさせるための正確・公正でバランスの取れた情報を提供することを怠っているから、世論とは、お世辞にも言えず、シンボル操作によるイメージに過ぎない)に自縄自縛になっていくマスコミの笑えぬ悲劇がある。もちろん、欧米のマスコミにもこういった病理はなくもないが、日本特有のコンフォーミズム、画一主義がそれを増幅し救いのないものにすることは確実だろう…。」
とし、さらに満州事変勃発の際、新聞はすでに中国軍に対しては「暴戻なる支那軍」、日本軍には「無敵皇軍」というシンボル語を固着させており、
「しかもそれが単に論評だけではなく、客観的であるべきニュース報道に至るまで常用されていたことは、大衆に特定の対象に対する固定観念を植え付け、判断停止を強制したと言われても仕方があるまい」
と書いた個所はそっくり削除され、その章の見出しも「自ら作った世論に自縄自縛」とあったのが、突破口求める閉塞状況」と、当時の社会的雰囲気に帰せられている(朝日新聞血風録145~146ページ)。
また、日本の新聞がその発祥した明治初期から「革新」好きで反政府を看板にしており自由民権運動の機関紙的な立場だったこと、そしてその自由民権運動は常に対外関係では国権擁護を旗印とした強硬論を唱えていたこと、そのために新聞もほとんどが日清日露戦争当時は開戦論を推進したこと、大正期はそれが滔々たるパシフィズムと民本主義の時流に乗って反軍・反政府打倒の論陣を張ったこと、それが昭和に入って政党政治の腐敗堕落、資本家の横暴に対する民衆の不満な高まると、反政党・反金権を掲げた国家革新運動に同調し、五・一五事件を起こした青年将校の助命キャンペーンに狂奔したこと、その行き着くところ言論の自由の基盤である民主主義の政治システム、すなわち政党政治の腐敗を批判攻撃のあまり崩壊に導き、政党解散・翼賛政治を唱導した近衛新体制に積極的に協力するに至った経緯を詳述した部分が二ページ以上にわたって全文削除されていた(朝日新聞血風録147ページ)。
この部分には、近衛新体制のイデオローグとなった昭和研究会の中心メンバーに朝日新聞の佐々弘雄論説委員が参加しており、また新聞の革新好みが軍と組んで高度国防国家建設・総力戦体制の確立を呼号する革新官僚への同調を生み、外交面では英米主導の世界体制を打破し日独伊枢軸による新世界秩序を樹立しようとする革新外交への傾斜となって現れ、その結果、太平洋戦争開戦への道から日本を引き戻す可能性を孕んだ米内内閣を攻撃し、それに力を得た陸軍が畑陸相を辞任させ後任を出さないという常套手段で倒閣に成功したこと、それに対して朝日新聞が社説で「米内有田外交の清算」と囃し、かわって近衛が登場すると「明察を鉄の意志で貫け」と声援を送ったことも書いてあった。それもまるまる削られている(朝日新聞血風録147~148ページ)。
マスコミの時局便乗指摘も、竹田室長の神経を悩ませたと見える。言論統制の実態を扱った第五章で、検閲だけではなく用紙統制や広告規制が死命を制したとし、とくに用紙統制の権限が商工省から言論統制を管轄する内閣情報部に移されたことが致命的だったと述べ、「昭和十五年ごろから用紙統制を武器として弱小新聞・雑誌の廃刊への追い込みが始まったが、大新聞のなかにはこの機に乗じて地方新聞の読者を奪い、部数を拡大しようとして、情報部が拡大改組された内閣情報局を通じて政治力を行使しようとした動きもあった。既に十二年九月の情報部設置時に大新聞・有力雑誌の代表者が参与として加わっていたからである」と書いたところ、その部分もそっくり削られていた。
そしてこの章の見出し「言論統制と迎合の複雑な交錯」も「厳しい言論統制」と変えられていた(朝日新聞血風録154ページ)。
用紙統制の権限というのは新聞用紙制限命令のことで、この権限は、昭和13年に帝国議会によって可決されてしまった極めて違憲性の強い国家総動員法が政府に与えたものであるが、近衛文麿の最高政治幕僚組織「昭和研究会」には、佐々弘雄と親交していた元朝日記者のソ連スパイ尾崎秀実や、尾崎の同僚であった朝日新聞経済担当論説委員の笠信太郎が加わっており、笠は昭和十四年十二月に日本経済を自由主義市場経済から統制経済へ移行させるための理論的指導書として「日本経済の再編成」を公刊し、ソ連の統制経済を模倣した国家総動員法の発動を推進していた。
そして内閣情報部に参与として加わった大新聞・有力雑誌の代表者には緒方竹虎がいたのである。
日本の自由主義を絞め殺す迫り来る先進国型全体主義の恐怖「人権擁護法案」に賛同して極左の民主党を支援する今日の朝日新聞の体質は、戦前から何も変わっていない。常に革新を好み、自由主義デモクラシーを絞め殺す機会を伺い、事ある毎に日本の国益を破壊する。
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ラベル:日本近現代史
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